海老名香葉子のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!

【PR】

   

 

8月14日の「徹子の部屋」に、海老名香葉子さんが出演!

海老名香葉子さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『海老名香葉子のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

と言うタイトルで、海老名香葉子さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

スポンサーリンク

 

 

 

海老名香葉子のニュース

 

出展:twitter

 

徹子の部屋 海老名香葉子

 

〜もうすぐ90歳!健康の秘訣は“仕事をすること”〜

海老名香葉子さんが今日のゲストです。

 

ゲスト

10月の誕生日で90歳を迎える海老名香葉子さんがゲスト。

 

番組内容

健康の秘訣は「仕事をすること」。

毎朝新聞を読み、ぬか漬けを食べるのも健康の秘訣だと語る。

終戦から78年、今も世界で戦争は無くならない。

ウクライナのニュースを見て思わず筆をとり、戦争の無い世を願って書いた詞。

曲をつけてもらい、平和を願う歌になったという。

11歳のときに東京大空襲で6人の家族を亡くした海老名さん。

疎開先には家族からの手紙が…。

父親からの手紙を紹介しながら、今は亡き家族に思いを馳せる。

引用:「徹子の部屋」の番組案内から

 

 

 

 

海老名香葉子のプロフィール

 

出展:Twitter

 

 

名前:海老名 香葉子(えびな かよこ)

本名:海老名 嘉代子(えびな かよこ)

旧姓:中根

生年月日:1933年10月6日(89歳)

出身地:東京府東京市本所区竪川町(現・東京都墨田区立川3丁目)

最終学歴:国民学校(5年)

職業・活動:エッセイスト、絵本作家、作家

株式会社ねぎし事務所代表取締役

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

海老名香葉子の経歴

 

出展:twitter

 

東京府東京市本所区竪川町(現・東京都墨田区立川3丁目)出身。

生家は釣り竿の名匠「竿忠」。

 

 

落語一家のおかみさんとして

 

第二次世界大戦中、静岡県沼津市の叔母宅に疎開した。

家族と別れる当日、母から「香葉子は強い子よ。だから大丈夫よ。いつもニコニコしているのよ。

笑顔でいれば必ずお友達もいっぱいできるし、みんなに好かれるのよ、

どんなときでも笑顔でいるのよ」と言われたことが心に残っていると言い、

自身の著書に記述され、インタビューでも度々語っている。

当時は国民学校の5年生だったが、その最中に起きた東京大空襲で、

父である竿忠の3代目・音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす。

唯一生き残った三兄の喜三郎が4日後、ボロボロの姿で訪ねてきて

「みんな死んじゃった。守れなかった。」と何度も泣きながら伝えられ、家族の死を知った。

身寄りを亡くしたため、終戦・帰京後は親戚をたらい回しにされるが、

父の知人で釣り好きで知られた3代目三遊亭金馬に引き取られる。

金馬家に七代目林家正蔵の妻が出入りしていた関係から、1952年その実子であった初代三平と

結婚し、以後三平の芸能生活を陰からサポートした。

結婚から2か月程経過した頃に夫・三平が体調を崩し、同時期に長女・海老名美どりを

妊娠していることが判明する。

経済的にも苦しい時期で、姑のすすめで易学の姓名判断によりこの頃から

「海老名香葉子」の名前を使う。

長女の他、次女・泰葉、長男・泰孝(九代目林家正蔵、前名:こぶ平)、

次男・泰助(二代目林家三平、前名:いっ平)と、4人の子供をもうけ、

林家たま平(正蔵の長男・泰良)、林家ぽん平(正蔵の次男・泰宏)、下嶋兄ら

6人の孫にも恵まれた。

しかし1980年、夫・三平が肝臓がんにより死去。

この時、泰孝は「林家こぶ平」として父・三平の門下となっていた

(三平の死去に伴い、惣領弟子の林家こん平門下に移籍)が、泰助はまだ小学4年生であった。

以後は惣領弟子で一門を引き継ぐ形となったこん平を支え、自らも一門の精神的支柱となり、

通常は師匠の死去に伴い一門は解散となる落語界にあって、

今日に至るまで一門存続を可能ならしめている。

なお、林家たい平がこん平に弟子入りを希望した際も、正式に弟子入りをするまでの間、

香葉子はたい平に対して自宅で住み込み修行をさせている。

ただ、次男のいっ平(泰助)が父の名跡である二代目三平を襲名した時点で、

「従来の(初代)三平一門」は解散となり、以後「三平一門」は二代三平の一門を指すことと

なるので、新たな形での夫一門の結束を模索している。

そのひとつとして、夫を顕彰する「ねぎし三平堂」を設けた。

長年、家族・一門のマネジメントを行う個人経営の「ねぎし事務所」があり、

夫の死後は先頭に立ってその運営を担っていた。

2007年には法人化され、代表取締役となった。

 

 

一個人としての活動

 

自身の戦争体験を絵本などにまとめ、平和の尊さを訴えている。

講演活動やテレビ出演も多い。

また、週刊誌などで人生相談の回答者としても活躍している。

絵本作品の中でも『うしろの正面だあれ』は自身の少女時代の戦争経験を元にした作品であり、

長男である林家こぶ平(現:九代目林家正蔵)が本名の海老名泰孝名義で出演する劇場用映画も

制作されるなどしていて特に著名な作品として知られる。

2005年、私財と寄付で東京都台東区上野に「哀しみの東京大空襲」、「時忘れじの塔」を建立し、

毎年3月9日に空襲犠牲者を慰霊する集いを行っている。

2021年3月には、追悼を続けていることに対して、アメリカ政府

(ジョセフ・ヤング駐日アメリカ臨時代理大使名義)から感謝の手紙を受け取っている。

2008年、日本テレビで放送されたドラマ『東京大空襲』では、監修も務めた。

政治的には平和の尊さを訴える立場から、日本共産党の支持者として名を連ねており、

2006年11月の「赤旗まつり」では、党書記局長・参議院議員の市田忠義とトークショーを行い、

日本国憲法第9条の堅守を訴えた。

戦争を回避するために、何よりも重要なものと考えている。

一方で2006年10月には、政府の教育再生会議委員に就任した(2008年1月末で解散)。

その一方では、政治的には日本共産党と対立関係(自民党支持・反共主義・保守派・右派・改憲派)

に位置する産経新聞の読者ファンクラブ「ウェーブ産経」の幹事を務めており、

同クラブ10周年記念会報(平成23年春、第26号)で産経新聞にエールを送っている。

文筆はエッセイにとどまらず、増位山太志郎のヒット曲『そんな夕子にほれました』の

作詞も手がけている。

かつては上記の戦争体験やその家庭的な雰囲気からコメンテーターとしてワイドショー等に

出演することが多かったが、別のバラエティー番組で長男である正蔵の箸の持ち方を指摘されて

以来その教育方針を問われ、ワイドショーへの出演は控えている状態である。

最近ではいくつかの自治体の観光大使等を務め、それぞれの土地のPRを行っている。

現在ではたいとう観光大使、穴水町名誉町民[、石川県観光大使 を務めている。

過去には第4期燦々ぬまづ大使を務めていた。

2015年9月には経営陣を変え新装開場した名古屋・大須演芸場最高顧問に就任。

2020年9月、大須演芸場がリニューアルオープン5周年を迎えたのを機に自身も高齢で

運営での助言の必要もなくなったと判断し、最高顧問の職を辞した。

 

 

家族

 

峰竜太は長女・美どりの夫である。

女優・国分佐智子は次男・泰助(二代目三平)の妻(2011年3月22日に入籍)。

春風亭小朝は次女・泰葉の元夫で、その離婚を巡ってはマスメディアを賑わせる騒動となり、

次男・泰助の二代目三平襲名にも影を落とす結果となった。

孫に林家たま平(正蔵の長男・泰良)、林家ぽん平(正蔵の次男・泰宏)、

下嶋兄(美どりの息子)がいる

(その他にも正蔵の長女や、美どりの長女と言った女性の孫もいる)。

現在も自宅は大家族主義であり、長男・正蔵夫婦と、正蔵の子供(香葉子の孫)であるあづき、

たま平、ぽん平の3姉弟、正蔵が正式に取った入門したての弟子(行儀見習い)と暮らしている。

これは初代三平と結婚した時以来の伝統である。

なお次男・三平一家は近所に自宅を構え、そこに暮らしている。

 

出展:Wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『海老名香葉子のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

と言うタイトルで、海老名香葉子さんについてお伝えしました。

 

「火垂るの墓」のせつ子の様な体験をしたと言う海老名香葉子さん・・・

極限の状況は今もこの世界から無くなる事はありません。

お盆を機会にもう一度、戦争と平和について考えたいですね。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です