テリー・ライリー(作曲家)のプロフィールは?学歴や経歴についても!

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9月29日の「スイッチインタビュー」にテリー・ライリーさんが出演!

テリー・ライリーさんってどんな人なのか気になり調べてみました。

今回は、『テリー・ライリー(作曲家)のプロフィールは?学歴や経歴についても!』

と言うタイトルで、テリー・ライリーさんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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テリー・ライリーのニュース

 

放送予定 - スイッチインタビュー - NHK

 

 

スイッチインタビュー「テリー・ライリー×久石譲」EP2

 

宮﨑駿監督の映画の音楽でも知られる久石譲

いま国際的に注目されている作曲家・久石が、心から敬愛する人がいる。

伝説の音楽家テリー・ライリーだ。今回はこの二人。

 

番組内容

エピソード2は東京。

閑静な街にテリー・ライリーの姿があった。

テリーは60年代、世界の音楽シーンに登場、その独特な音楽は

「ミニマル・ミュージック」と呼ばれ、ロックやポップスにまで影響を広げた。

そのテリーが久石のスタジオを訪ねる。

前回EP1で対話を深め、意気投合した二人。

宮﨑駿監督との関係は? 映画音楽とはどうあるべきか。

音楽を「創る」とは何か。

尽きせぬ音楽の魅力。

テリーが久石から引き出していく。

 

出演者

【出演】作曲家・音楽家…テリー・ライリー,作曲家…久石譲,

【語り】市川実日子,岡田将生

 

 
 
 

引用:「スイッチインタビュー」の番組案内から

 

 

 

 

テリー・ライリーのプロフィール

 

画像

出展:X

 

 

テリー・ライリー
Terry Riley
基本情報
出生名 Terrence Mitchell Riley
生誕 1935年6月24日(88歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州コルファックス
学歴 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア大学バークレー校
ジャンル 現代音楽ミニマル・ミュージック、前衛音楽、実験音楽
職業 作曲家、ミュージシャン
公式サイト http://terryriley.net/

出展:Wikipedia

 

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テリー・ライリーの経歴

 

出展:X

 

アメリカ合衆国カリフォルニア州コルファックス生まれで、

シャスタ・カレッジ、サンフランシスコ州立大学、サンフランシスコ音楽院で学んだ。

その後、カリフォルニア大学バークレー校に入学、セイモア・シフリンと共に作曲法を学び、

修士の学位を得た。

しかし、彼に最も大きな影響を与えた教師はパンディット・プラン・ナートであった。

プラン・ナートはインド古典声楽の名人で、ラ・モンテ・ヤングやマリアン・ザジーラも

彼の生徒であった。

ライリーはパンディットの課程の間に何度もインドを訪問し、師が演奏する際、

タブラ、タンブーラ、及び声による伴奏に携わった。

 

1960年代を通じて、彼はヨーロッパにも度々旅行した。

そこではピアノ・バーで日々の糧を得ながら、音楽的影響も受けた。

彼の有名曲は長さの異なるモードのセリーを用いた即興演奏に基づいており、

その演奏は「In C(英語版)」、「Clapping Music」(1972年)、「Keyboard Studies」で

聴くことができる。

「In C」 (1964年) は最も知られた曲で、ミニマル音楽を一気に有名にした。

1968年には、やはり代表曲のア・レインボウ・イン・カーヴド・エア を発表している。

ライリーは、1971年からはミルズ・カレッジにてインド古典音楽の教鞭をとることとなった。

 

1960年代にはまた、有名な「徹夜コンサート (All-Night Concert)」を行った。

そこでライリーは古い「バラストの中に真空掃除機のモータで風を送り込むような」

リードオルガンとテープレコーダーによる遅延装置付きのサクソフォーンを用い、

日の入りから日の出まで即興演奏を披露した。

何時間も演奏し続けた彼がついに休憩を必要とした際、夜中じゅう回しっぱなしにしていた

テープレコーダーのテープをループさせ、サクソフォーン演奏の断片を繰り返し再生した。

この種のコンサートは何年も続き、観客は寝袋、ハンモック持参で

家族全員を連れてくるようになった。

 

ライリーは長年にわたりクロノス・クァルテットとの関係を保ったが、

その始まりはミルズ・カレッジで創始者のデイヴィッド・ハリントンと出会った時であり、

それ以来、アンサンブルのために13の弦楽四重奏曲を作曲した。

最初の管弦楽曲「Jade Palace」を作曲したのは1991年のことであり、その後、

同方面の作品が続いた。

現在ではインドのラーガ歌唱及びピアノ独奏でも実演と教育を行っている。

 

2020年以降の新型コロナウイルスの世界的流行の影響で、

ライリーは日本に滞在することになった。

きっかけは、佐渡島のイベント「さどの島銀河芸術祭」だった。

ライブストリーミングチャンネルのDOMMUNEが、さどの島銀河芸術祭でライリーのコンサートを

企画し、ライリーは視察で2020年2月に来日した。

当時はダイヤモンド・プリンセス号でクラスターが発生しており、来日のリスクが懸念された。

ライリーはDOMMUNE主催の宇川直宏への手紙で

「もしウイルスに感染したとしても、それは私のカルマなので心配はいらない」と書いた。

佐渡島に滞在した際、ライリーは鼓童や鬼太鼓に感動したと述べている。

しかし、来日後にアメリカで新型コロナウイルス感染者が増加したため、

ライリーは日本での滞在を選んだ。

日本での生活について、「85歳にして人生の新たな章が始まるとは想像もしていませんでしたが、

私の仕事や人生観全般において、最も活力に満ち、最も刺激的な時期の一つとなっています」

とコメントをしている。

現在は山梨県北杜市に在住

 

さどの島銀河芸術祭は、2020年8月8日(土)から10月11日(日)に開催され、

ライリーも9月22日にコンサートを行った。

ライリーは北沢浮遊選鉱場跡を会場に選び、運営側はコンサートを予約制として、

来場者はPCR検査の陰性結果が必要となる日本初のコンサートとなった。

当日はライブ配信はなく、後日にDOMMUNEで期間限定のアーカイブが配信された。

ライリーはアーティストビザを取得し、2021年の夏に予定されているさどの島銀河芸術祭の

コンサートの準備を進めている。

また、2022年には久石譲とのコンサートも実現した。

 

山梨県北杜市に引っ越してから毎月神奈川県鎌倉市で弟子の宮本沙羅と共に

少人数制のKIRANA流派ラーガ教室を開催し、参加者と気軽な形で交流している。

2023年7月20日には国立音楽大学の講堂大ホールで『In C』の作曲公開講座を行った。

内容としては、国立音楽大学に在籍する学生による演奏とテリー・ライリーによる指導を

公開形式で行った。

 

ライリー初期の試みにはカールハインツ・シュトックハウゼンの影響があるが、

ラ・モンテ・ヤングと出会って以降、音楽の方向性を変えた。

1955年から1956年にかけて、ライリーはヤングのシアター・オブ・エターナル・ミュージックに

加わった。

ライリーはヤングを「これまで会った中で最もフリークな奴」といっている。

ヤングの発想こそが、ミニマリズムの心臓部であると言うのだ。

だが、ミニマリズムにおけるライリーの影響力を挙げる音楽家も多い。

この新しいスタイルを初めて用いたのは、1960年の弦楽四重奏曲においてであった。

そのすぐ後に作曲された弦楽三重奏曲では短いフレーズを繰り返す技法を初めて彼は会得し、

それがミニマリズムのスタイルとなったのである。

 

ミニマル音楽の演奏者としては、スティーヴ・ライヒ、ジョン・ギブソン、

ポーリン・オリヴェロス、モートン・サボトニックが挙げられる。

他にも星の数ほどの演奏家(例えばジョン・クーリッジ・アダムズ、フィリップ・グラス)に

影響を与え続けている。

それはまさに発明というべきであった。

曲は53個の独立したモジュールからなり、それぞれのモジュールはほぼ1拍の長さで、

おのおのが異なった音楽のパターンを有している

(だが、タイトル通りすべてハ長調 in C である)。

演奏者の一人はピアノから一定したハ音の連続を繰り出し、テンポを維持する。

他の演奏者の人数と用いる楽器は任意で、いくつかのゆるやかなガイドラインに従って

それらのモジュールを演奏する。

その結果、時とともに異なったモジュールが様々に連動しあって行くのである。

「Keyboard Studies」も同様の構造を持つ独奏曲である。

 

極小の音楽要素を集めて複雑で稠密な全体像を造り上げるこの様式は、

凝り固まりつつあった西洋クラシック音楽のアカデミズムから離れる運動をもたらした。

20世紀半ばの音楽界は、新ウィーン楽派の複雑な構築と新古典主義音楽によって

埋め尽くされていた。

ミニマリズム運動はこのような形式主義を放棄した。

ライリーは更に一歩を進め、しばしば即興的要素を作曲に取り入れることで緊密な構成を

否定するようになった(独奏者としては即興演奏の経験は長かった)。

 

1968年の「A Rainbow in Curved Air」がこの種の技法を用いた最初期のものである。

この作品及び対になる「Poppy Nogood and the Phantom Band」(1969年録音)は、

ライリーの徹夜コンサートの印象を伝えるものである(そこまで長くはできなかったが)。

インド音楽と独奏に集中するため一旦は作品の記録を止めてしまったライリーであったが、

クロノス・クァルテットとの仕事が彼を再び更に構成的な、記譜可能な音楽に向かわせた。

しかし即興的要素はクロノス・クァルテットのための作品でも重要な役割を果たしている。

 

1950年代には当時黎明期にあったテープループ技法を用い、それ以降もテープを用いた音楽効果を

スタジオでもライブでも研究し続けた。

微分音を用い、純正律の音楽も作曲した。

ロヴァ・サクソフォーン・カルテット、ポーリン・オリヴェロス、クロノス・クァルテット

だけではなくマイケル・マクルーアとのコラボレーションも行った。

マイケル・マクルーアは脚本家で、作曲のライリーと共にアルバムを制作した。

「A Rainbow In Curved Air」は、ロック・バンド、ザ・フーのギタリストである

ピート・タウンゼントのシンセサイザーパートにインスピレーションを与え、

「Won’t Get Fooled Again」と「ババ・オライリィ」を生んだ。

後者はライリーと共に、メヘル・バーバーに捧げられている。

「A Rainbow In Curved Air」からバンド名を取ったロック・バンド、

カーヴド・エア がイギリスから誕生している。

また、マイク・オールドフィールドの「チューブラーベルズ」(ヴァージン・レコード)も、

ライリーのミニマル音楽から強い影響を受けている。

 

日本では、2005年に自由学園明日館講堂、金沢21世紀美術館・シアター21で、

ギタリストのデイヴィッド・タネンバウム(英語版)らとともに公演を行った。

また、2014年には映像作家寒川裕人と共同プロジェクトで来日公演を行った。

2017年11月には、フアナ・モリーナ、ジェフ・ミルズとのツーマン(会場:渋谷 WWW X)

ならびに単独公演(会場:代官山 晴れたら空に豆まいて)を行い、大きな話題を呼んだ。

また、その来日に先駆けてのDOMMUNEでのビデオ・インタビューに於いて、

「『ミニマル』というのはアカデミックすぎる。自分はむしろ『サイケデリック』と呼ばれたい」

と述べた。

 

出展:wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

 

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まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『テリー・ライリー(作曲家)のプロフィールは?学歴や経歴についても!』

と言うタイトルで、テリー・ライリーさんについてお伝えしました。

 

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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