五月みどりのプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!

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2月27 日 の「徹子の部屋」に五月みどりさんが出演!

五月みどりさんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『五月みどりのプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

と言うタイトルで、五月みどりさんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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五月みどりのニュース

 

テレ朝POST » 恋多き女・五月みどり(80歳)に“ひ孫”誕生!離婚 ...

 

徹子の部屋 母娘特集

 

〜波瀾万丈⁉ママと愛娘〜五月みどりさん&千恵さん、

真野響子さん&柴本幸さん、ロザンナさん&万梨音さん、冨士眞奈美さん&岩崎リズさん

…母娘特集をお送りします。

 

番組内容

今日は「波瀾万丈⁉ママと愛娘」と題して、母娘で一緒に出演した方々を特集。

五月みどりさんは、幼い頃に離婚で別れた娘の千恵さんと。

真野響子さんと柴本幸さんは、女優同志お互いの家庭での素顔を紹介。

ロザンナさんは、万梨音さんの結婚と男児誕生の喜びを。

冨士眞奈美さんと岩崎リズさんは、いつまでも子離れできない困った母の様子を。

どうぞお楽しみに‼

 

引用:「徹子の部屋」の番組案内から

 

 

 

 

五月みどりのプロフィール

 

画像

出展:Twitter

 

さつき みどり
五月 みどり
五月 みどり

1963年
本名 面高フサ子
生年月日 1939年10月21日(83歳)
出生地 東京都江戸川区
職業 歌手タレント女優
配偶者 西川幸男(1965年 – 1971年)
面高昌義(1976年 – 1984年)
立花淳一(1985年 – 1987年)
著名な家族 小松みどり(妹)
西城正明(弟)
西川哲(息子)
主な作品
レコード
おひまなら来てね


映画
五月みどりのかまきり夫人の告白


バラエティー番組など
金曜10時!うわさのチャンネル!!
クイズダービー
伊東家の食卓

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さつき みどり
五月みどり
プロフィール
生年月日 1939年10月21日
現年齢 83歳
出身地 日本の旗 日本東京都江戸川区
血液型 A型
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重 156 cm / ― kg
スリーサイズ 88 – 63 – 90 cm
活動
デビュー 1958年
ジャンル 女優、歌手、画家
モデル内容 一般、ヌード

 

出展:Wikipedia

 

最終学歴:東京都立深川高等学校卒業

 

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五月みどりの経歴

 

画像

出展:Twitter

 

父の大野房次郎は鹿児島県出身で、江戸川区平井で大野屋精肉店を経営。

母は山形県舟形町出身。

父は終戦時に仲間と近所に芝居小屋を建て、昼は肉屋、夜は役者という生活をしていた。

8人兄弟の長女(弟4人、妹3人)、

「江戸川区の大野精肉店の長女として生まれました。その後12年の間に姉弟は8人になり、

母は大変だったでしょうね。」と述べている。

 

6歳から日本舞踊を初め、8歳で舞台に立つ。

父は芝居に厳しくセリフを覚えられないと学校に行かせてもらえなかった。

歌が好きでラジオの「のど自慢大会」などに出たが成績は振るわず、

しかし1956年(昭和31年)、ニッポン放送『ものまねのどじまん』で優勝。

審査員だった作曲家の宮城秀雄から「歌手を目指さないか」と言われ、

宮城の下で修行することになる。

同年5月、16歳でキャバレーでの初舞台を踏んだ時「天才少女現る」と話題になり、

その際本名(大野フサ子)が地味であると、宮城が「五月みどり」という名前を考えた。

由来は5月だったので緑の芽がすくすく伸びるようにと、

五月自身も明るく華やかな名前で気に入っている。

 

1958年(昭和33年)11月、「お座敷ロック」でレコードデビュー。

3年間売れず、4年目のある日レコード会社の廊下で作曲家の遠藤実から

「君に合いそうな曲ができた」、「おひまなら来てよネ~」と遠藤がその場で歌い、

その時ビビッと来て「私に歌わせてください」とお願いし、

1961年(昭和36年)5月、「おひまなら来てね」発売。

それまでの歌手にはなかった愛らしくチャーミングな美貌とともに、

奇麗な「ちりめんビブラート」を生かしたこの歌は大ヒットとなる。

翌1962年(昭和37年)には『NHK紅白歌合戦』(第13回)に初出場。

 

その後も1963年(昭和38年・第14回)、1964年(昭和39年・第15回)と

通算3回連続で紅白出場を果たした。

ビデオリサーチ社発足以後のテレビ番組としては史上最高の視聴率81.4%

(ビデオリサーチ社調べ、関東地区。以下同じ)を記録した第14回では自身の

「一週間に十日来い」歌唱時に瞬間最高視聴率85.3%を叩き出した。

ほか「忙しくても来てね」「明日も来てね」(「来てね」シリーズ)、

「温泉芸者」「熱海で逢ってね」(「芸者」シリーズ)などのヒット曲がある。

 

1965年(昭和40年)に結婚し芸能界を引退したものの、のちに離婚し芸能界へ復帰。

1970年代以降はタレント、女優としての活動に重心を移す。

1975年(昭和50年)には主演ポルノ映画『五月みどりのかまきり夫人の告白』(東映)が

話題になった。

その後、40歳を過ぎても日活ロマンポルノ作品に主演し、

若々しい肉体と大胆な演技で世に衝撃を与えた。

熟女ヌードのさきがけとも言える。

五月は「ロマンポルノのお話をいただき「面白そう」とお受けしました。

周囲からは紅白に出た歌手なのにと色眼鏡で見られたこともあります。

昔から、面白そうと思ったことはすぐやってみたくなるの。

それに過去よりも現在の自分を見てもらいたかった。

父は反対すると思いきや、私のヌードポスターを自宅に貼っていました。

当時、脱ぐの若い人ばっかりだったので、自分で言うのはなんですが、

熟女ブームの先駆けとなったかもしれないと思います。」と述べている。

 

1976年(昭和51年)に番組がスタートした『クイズダービー』(TBS)の

初代2枠レギュラーとして出演。

勝率は4割6分8厘(平均4勝6敗〜5勝5敗ペース)だった。

レギュラー降板後も度々5枠のゲスト解答者として出演したが、

出題が五月のレギュラー時より難しくなったこともあり、勝率は2割台に下がっている。

また同番組最終回には、出場者(ギャンブラー席)として、初代3枠レギュラーの黒鉄ヒロシ、

初代5枠レギュラーのガッツ石松とともにトリオを組んで登場した。

しかし、賭け方が下手だったこともあり、賞金獲得額は0円となっている。

 

1984年にテレビドラマ『昨日、悲別で』(日本テレビ)に主人公の母親役で出演、

これは五月が徹子の部屋で最初の離婚による二人の子供とのつらい別れの話をする機会があり、

それを自宅見ていて倉本聰が執筆中のドラマの主人公の母親役は「この人しかいない」と思って、

直接オファーをもらい、涙を浮かべながら微笑んで、

淡々とつらい体験を語る姿が印象的だったという。

 

1989年(平成元年)には二科展入選。個展を開催したこともある。

ミツカン「追いがつおつゆ」のCMで、当時長男の妻菊池桃子(2012年離婚)との共演も行った。

現在は着物のデザインやティッシュボックスの製作などでも活躍している。

また、1997年10月 – 2007年3月に日本テレビで放送された『伊東家の食卓』の

母親役でもお馴染みであった。

2007年1月には、大相撲の初場所14日目に溜席で観戦しているのが

テレビカメラに大きく映っていたのにもかかわらず、中継では一切触れられなかった。

 

出展:Wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『五月みどりのプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

と言うタイトルで、五月みどりさんについてお伝えしました。

 

いや~。 お懐かしいですね~。

おひまなら来てよね~♪ でしたか・・・

ひまでしたけど行けませんでした(笑)

それにしてもアントニオ猪木の腹話術をされてたなんて!

まさに衝撃ですね~。

いつまでもオチャメなお姉さんで居て下さい。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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