舟木一夫の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!

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11月18日の「徹子の部屋」に舟木一夫さんが登場!

舟木一夫さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『舟木一夫の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!』

というタイトルで、舟木一夫さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

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舟木一夫のプロフィール

 

 

徹子の部屋(バラエティー) | WEBザテレビジョン

出展:テレビ朝日「徹子の部屋」

 

名前:舟木 一夫(ふなき かずお)

舟木 一夫
出生名 上田 成幸
別名 高峰 雄作
里中 さとる
岩鬼 まさみ
すずき じろう
生誕 1944年12月12日(77歳)
出身地 日本の旗 日本愛知県一宮市
学歴 自由ヶ丘学園高等学校
ジャンル 演歌歌謡曲
職業 歌手タレント
担当楽器
活動期間 1961年 –
レーベル 日本コロムビア
事務所 ホリプロダクション
第一共栄プロダクション→
舟木音楽事務所→
アイエス(業務提携)
公式サイト 舟木一夫 日本コロムビアオフィシャルサイト

 

 

舟木一夫の現在

 

舟木一夫 | NHK人物録 | NHKアーカイブス

出展:www2.nhk.or.jp

 

やはり年輪を感じますね~。

 

 

舟木一夫の若い頃

 

617 舟木一夫「はるかなる山」 付・舟木一夫&高石かつ枝対談 ...

出展:blog.livedoor.jp

 

街中のどの方向からも彼の歌が聞こえる時代がありましたね~♪

 

 

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舟木一夫の経歴

 

 

デビューまで

 

1944年12月12日、愛知県中島郡萩原町(現・一宮市)に生まれる。

「燃えよドラゴンズ!99」のカップリング曲「ROCK’N ROLL ふるさと」の歌詞には

生家への行き方が書かれている。

父親は石川県河北郡津幡町笠谷の旧家の出で、父方の祖父は「立山伊次郎」の四股名で

雷部屋に所属した力士であった。

舟木が父から聞いたという話によると、本名の「成幸」という名前は楠木正成と真田幸村の

二人の武将から一字ずつとって命名したとのことである。

 

音楽に興味を持ち始めたのは、1か月間肩叩きを続けたご褒美にと祖母からハーモニカをプレゼント

してもらったこと、ラジオで三橋美智也の歌を聴いたことがきっかけの一つ。

13歳年下の弟が出来た頃、家が貧しかったことから「誰かがこの家にお金を入れ続けないと。

弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたい」として学校卒業後は自分の才能で

短い間に稼げる世界に行きたいと思うようになり、そんな時に友人の家のテレビで歌手を見て、

これだと思い歌手を目指すようになった。

 

中学2年生の時に父に頼み込み、中学の音楽の先生の紹介で指揮者の山田昌弘を紹介してもらい、

名古屋市内の教室に通ってレッスンを受ける。

高校2年であった1962年2月、地元のCBCテレビの番組『歌のチャンピオン』に出場して

松島アキラの『湖愁』を歌い、チャンピオンになる。

 

同年3月、名古屋市内のジャズ喫茶で行われた「松島アキラショー」で、ステージ上の松島アキラが

『湖愁』を誰か一緒に歌わないかと客席に声を掛けた所、前列に居た高校生が勢いよく手を上げた。

少年は隣に居た同級生に手首を掴まれての事であった。

 

狐に摘まれた表情で舞台に上がった少年は、見事松島と共に「湖愁」を歌いきった。

この少年こそ、後の舟木一夫である。

 

偶然そこに取材に来ていた「週刊明星」の記者恒村嗣郎が目を付け、

上田少年に氏名と住所を聞き、東京に帰ると、早速ホリプロの会長だった堀威夫に

名古屋での出来事を話し、興味を持った堀は、電話で上田少年に歌のテープを送ることを依頼。

 

そのテープを聴いた堀は、翌年5月上田少年を上京させ、

日本コロムビアのディレクターだった斎藤昇に紹介。

斎藤は作曲家遠藤実にレッスンを受けさせることにし、

上田少年は、愛知高等学校から転校した自由ヶ丘学園高等学校へ通いながら、

遠藤実のレッスンを受けることとなった。

 

上田少年は芸名を舟木一夫とし、ホリプロに所属することになった。

社長の堀は、当時デビュー2年目で全盛期を迎え、舞台で時々学生服を着て歌っていた

橋幸夫の対抗馬として、当時現役高校生だった舟木を学生服デビューさせると決定した。

 

デビュー

 

1963年6月5日、デビュー曲は恩師遠藤実作曲、

日本コロムビア専属だった丘灯至夫作詞の「高校三年生」と決定した。

4月で高校を卒業していた舟木だったが、「学生服で行け」という遠藤実の指示で、

歌謡界異例の学生服デビューとなった。

なお、「高校三年生」のレコードジャケットで舟木が着ているのは当時の母校の制服である。

 

「高校三年生」は、発売1年で100万枚の大ヒットを飛ばし、舟木は第5回日本レコード大賞

新人賞を、丘は作詞賞を受賞した。

デビューから2ヵ月後、本人が主演した同名映画も大ヒットし、舟木は一躍スター歌手になった。

それに続き、学園三部作と言われた「修学旅行」「学園広場」もヒットした。

 

1964年3月には初のワンマンショーを東京・浅草国際劇場で行う。

当日には、地元・一宮市から東京駅まで国鉄がワンマンショー観覧客のための特別列車を運行させ、

東京駅から浅草国際劇場まではパトカー先導の元で観光バス19台で移動するという程までになった。

 

スター歌手に

 

1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で

数々のヒットを飛ばした。

テレビ時代劇『銭形平次』のテーマソング「銭形平次」も、番組のロングランもあって

舟木の歌としてよく知られるところとなった。

 

また特に詩歌、文学をモチーフにした叙情歌謡と呼ばれるジャンルでは持ち前の歌唱を活かして

第一人者的存在となり、「絶唱」「夕笛」「初恋」などがヒットし、

1966年には「絶唱」で第8回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。

 

このジャンルとしてはその集大成ともいうべきアルバム『その人は昔』がある。

これは作家松山善三の長編抒情詩を正味1時間すべて舟木の歌唱で埋めるという、

前代未聞の作品であり舟木の歌唱力が最大限に発揮されている。

更にこの作品はLPとしては当時記録的な売上となり、

後に舟木と内藤洋子の主演により映画化もされた。

 

そしてこのLPおよび映画が劇画作家ながやす巧に大いなる影響を与え、

その代表作『愛と誠』を生むきっかけとなった、という事実は、

コミック界では有名なエピソードである。

 

低迷から復活へ

 

1969年までは名実共に高い人気を保持していたものの1970年に入ると、

かねてより多数出演していた歌謡映画が廃れ、TVドラマへの需要が無くなり、

それに追い討ちを掛けるが如く歌謡界の変化に伴い表立った仕事は激減し

舞台と地方公演が主な活動の場となってゆく。

 

それゆえに1970年、1971年、1972年に自殺を図るが未遂に終わったり、

1973年には心身の不調のため翌年まで10ヶ月間静養することとなる。

また、私生活でも可愛がっていた年の離れた弟が、死亡するという不幸にもあっている。

 

その後十数年に渡り不遇時代が続いたが、デビュー30周年プレ公演を機に、

主に中高年女性のアイドルとして人気再燃、そのなかで

「同じ青春を過ごした仲間にしか通用しない歌い手でいい」と述べている。

1997年には念願でもあった新橋演舞場での初座長公演を行う。

そして1999年には中日ドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ!’99」を歌い

(舟木自身も大のドラゴンズファンである)、25年ぶりにオリコン40位ランクインを記録。

 

2007年にはデビュー45周年を迎え記念コンサートを行う。

そして「単なる流行歌でない。何も変える必要はない。これでいい」と述べている。

 

2016年、第1回あらえびす文化賞・特別賞を受賞。

現在も、歌手としてテレビやコンサートで精力的に活躍しているほか、

舞台俳優としても毎年座長公演をこなし、

幅広い層から根強いファンを集めていることで知られている。

 

出展 : wikipedia

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『舟木一夫の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!』

というタイトルで、舟木一夫さんについてお伝えしました。

 

それにしても、

高峰 雄作
里中 さとる
岩鬼 まさみ
すずき じろう・・・

のお名前が別にあっただなんて、

 

ご本名も【上田 成幸】と、あれ程人気がありながら、

初めて聞くお名前だったりして・・・

 

かつて、御三家と呼ばれたスーパースターも

様々なご苦労があったのでしょうね。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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