さだまさしのプロフィールと最終学歴は?経歴や著作についても!

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2月9日の「プロフェッショナル仕事の流儀」にさだまさしさんが出演!

さだまさしさんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、さだまさしのプロフィールと最終学歴は?経歴や著作についても!』

と言うタイトルで、さだまさしさんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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さだまさしのニュース

 

プロフェッショナル 仕事の流儀 - NHK

 

プロフェッショナル

「時代を歌う、私を歌う、未来を歌う 〜さだまさし〜」

 

 

プロとしてのコンサート数、圧倒的な日本一。

今も新曲を生み出し続ける男、さだまさし(70)。

なぜ今、さだなのか。

なぜさだは、歌い続けるのか。

その素顔と秘めた思い。

 

番組内容

『風に立つライオン』『案山子』『北の国から』半世紀の間、

誰もが一度は耳にしたことのある曲を生み出し続けてきたシンガーソングライター、

さだまさし(70)。

同世代のアーティストたちが一線を退く中で、その露出はむしろ増している。

なぜ今、さだなのか。

番組では曲作りからコンサートの裏側までを密着取材。

歌うことを手放しかけた過去や、故郷への思い。

46年ぶりに臨む特別な舞台への覚悟。

そして生まれた、新たな曲。

 

出演者

【出演】さだまさし,【語り】橋本さとし,貫地谷しほり

 
 
 

引用:「プロフェッショナル仕事の流儀」の番組案内から

さだまさしのプロフィール

 

画像

出展:Twitter

 

さだ まさし
出生名 佐田 雅志[1]
生誕 1952年4月10日(70歳)
出身地 日本の旗 日本長崎県長崎市
学歴 國學院大學中退[2]
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1973年 –
レーベル
事務所 さだ企画
共同作業者
公式サイト さだまさしオフィシャルサイト

出展:Wikipedia

 

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さだまさしの経歴

 

出展:Twitter

 

 

経歴

 

生い立ち~青年期

父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年4月10日、長崎県長崎市で生まれる。

佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町(現:浜田市)にあり、本家の二男だった祖父・繁治は

中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた

経歴の持ち主である。

 

その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連(現:ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいた

という当時の日本人女性としては異色の存在である。

父・雅人(1920 – 2009)は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、

そのまま長崎に住み着いた。

その後、戦友の妹・喜代子(1926 – 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。

雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった

(ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、

一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる)。

 

3歳よりヴァイオリンを習い始める。

1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、

翌1964年、小学校6年生で同大会2位。

ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、

中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。

以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。

中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。

 

最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。

叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、

覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。

中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、

ギターを奏でながら歌を作るようになる。

駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に

行っていたという(なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって

38日間連続して遅刻する、といった調子の生活をしていたという)。

 

上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力は

していたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは

当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、

東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)

の受験は失敗という結果になってしまう。

家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。

以降ヴァイオリンへの熱意を失う。

とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、

ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。

 

グレープでデビュー

高校卒業後、國學院大學法学部に進学した。

尚、大学は数ヶ月程度で中退しており、ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの

生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する。

1972年、高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、

そのまま さだ家に住むこととなった。

 

その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、

さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず

「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという。

以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。

11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に

250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むような

こともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。

 

やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」で

ワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。

所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループなどを当たるが

不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、

デビューに至った。

 

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに

無理に買わせるといった状況であったという。

1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、

まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。

しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が

担当の曜日で毎週のように流し続けた。

これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、

この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。

 

1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。

しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、

聴衆から忘れられるという理由で断られている。

また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が

思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」

というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、

1976年春に解散した。

なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を

「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。

 

ソロ歌手への転向

1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。

体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、

「線香花火」でソロ活動を始める。

その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、

自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。

 

1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル

「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。

それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、

さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。

後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、

谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。

その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。

 

1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、

1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。

同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。

以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、

数々のヒット曲を放つ。

 

1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)に

サーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当する。

さらに、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、

『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。

映画自体は120館上映というヒットであったものの、

(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で

映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり)さらに中国での撮影でのさまざまな障壁も

あいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、

結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまった。

(大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)

さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。

この頃は映画の失敗に加え、1980年代的な「ドライでクール」な世相のノリと合わなくなったこと、

「関白宣言」「防人の詩」に対して右翼的との批判を受けるなど、さだ不遇の時代でもあった。

 

1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。

テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。

1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成する。

血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。

ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。

 

1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート

『夏・長崎から』を開催した。

以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い、

地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった。

 

1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。

1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する

(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。

1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。

2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。

ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う

(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。

2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、

さらに映画化もされた。

さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム

『小説「精霊流し」の世界』を発売した。

児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。

 

2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という

前人未到の偉業を達成。

9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を

東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。

グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、

バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。

12月、小説集『解夏(げげ)』発表。

2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。

2004年12月、長編小説『眉山』発表。

 

2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて

「君が代」を独唱。

9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。

同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。

10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。

2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番

『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。

その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。

2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース

(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。

2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である

「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。

その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。

 

2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。

2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。

広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。

2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。

トップ10入りを果たす。

出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。

 

2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。

コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。

2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを

山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。

2012年6月10日に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。

パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に

一切無償で出演。

 

2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート

( – 2013年1月)。

二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、

2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。

2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。

2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。

公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表。

2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社を

JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントに移籍することが決定。

同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。

5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。

 

 

 

著作

 

ステージトーク集
  • 噺歌集(全5巻 文藝春秋)
  • さだまさし 話のアルバム(新潮CD文庫)
その他
  • 僕の愛読詩集(新潮社カセット文庫) – 井伏鱒二との対談付
  • さだまさしのセイ!ヤング(赤本・青本)(音楽之友社)
  • アルバムライナーノート集『自分症候群』(新潮社)
  • ピクチャーブック『遙かなるクリスマス』(講談社)
  • 『落談まさし版三国志英雄伝』(自由書館(絶版)、文藝春秋);エッセイ
  • 本 人の縁とは不思議なもので…(八曜社) – 初の著作本
  • 時のほとりで(新潮文庫)
  • さまざまな季節に(文藝春秋)
  • ゆめいくみはっぴい(夢行身発飛)(全3巻 新書館)
  • 風待煙草(CBSソニー出版)
  • せとぎわの魔術師(講談社)
  • 日本が聞こえる(毎日新聞社)
  • まほろばの国で(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第二弾)
  • いつも君の味方(講談社)
  • 本気で言いたいことがある(新潮社)
  • 美しき日本の面影(新潮社)
  • もう愛の唄なんて詠えない(ダイヤモンド社)
  • まほろばの国で 終章(毎日新聞社)(『日本が聞こえる』単行本第三弾)
  • いのちの理由(ダイヤモンド社)
  • 酒の渚(幻冬舎)のち文庫
  • さだの辞書(岩波書店)
小説
  • 精霊流し(幻冬舎)
  • 解夏(幻冬舎)
  • 眉山(幻冬舎)
  • 茨の木(幻冬舎)
  • アントキノイノチ(幻冬舎)
  • かすてぃら 僕と親父の一番長い日[53](2012年4月5日、小学館、ISBN 978-4093863292)
  • はかぼんさん:空蝉風土記(2012年8月22日、新潮社、ISBN 978-4103008729)
  • 風に立つライオン(2013年7月18日、幻冬舎、ISBN 978-4344024229)
  • ちゃんぽん食べたかっ!(2015年5月28日、NHK出版、ISBN 978-4140056646)
  • 銀河食堂の夜(2018年9月28日、幻冬舎、ISBN 978-4344033603)
童話
  • ふうせんのはか(くもん出版)
  • おばあちゃんのおにぎり(くもん出版)
  • 23時間57分のひとり旅(くもん出版)
翻訳
  • とても温かで とてもせつない きみの絵本
  • (2016年4月21日、ジュヌヴィエーヴ・カスターマン著、
  • 千倉書房、ISBN 978-4805110966)
歌詞と絵で綴るさだまさし絵本シリーズ
  • 秋桜(サンマーク出版)
  • 償い(サンマーク出版)
  • 親父の一番長い日(サンマーク出版)
  • 案山子(サンマーク出版)
  • 奇跡(サンマーク出版)

また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。

 

出展:Wikipedia

 

 

ネットの反応

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、さだまさしのプロフィールと最終学歴は?経歴や著作についても!』

と言うタイトルで、さだまさしさんについてお伝えしました。

 

さだまさしさん、凄い才能に恵まれただけでなく、

プロとしてのコンサート数、圧倒的な日本一!

同世代のアーティストたちが一線を退く中で、

今も新曲を生み出し続ける男・・・超人ですね。

番組でのお話が楽しみです~♪

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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