源範頼の最期は?流罪の理由は曽我兄弟?家系図と子孫も確認!

   

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の源範頼(のりより)が危ういと、

ネットが騒ぎ始めましたが、今後どうなって行くのでしょうか。

今回は『源範頼の最期は?流罪の理由は曽我兄弟?家系図と子孫も確認!』

というタイトルで、源範頼(蒲殿)についてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。(ネタバレ注意)

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源範頼の最期は?

 

富士の巻刈りから無事に帰った頼朝をねぎらう範頼。

ところが次回予告では。

「@:*#$※ ワシを説き伏せてみよ範頼ィ~」っと凄いケンマクで

範頼を追い詰める頼朝兄さん。

一体何があったのでしょうか?(時を戻そう)

 

① 1193年5月28日富士の巻狩の夜、曽我兄弟の仇討事件が起きます。

仇討されたのは工藤 祐経(くどう すけつね)でした。

しかし、鎌倉に届いた第一報は【頼朝死す】だったのです。

騒然となる政子に対して優しい範頼は「私が居るから大丈夫」と言います。

これが後に頼朝の耳に入り(大江広元も余計な事を言ってましたね)

「%&$※ 範頼め~っワシに取って代わるつもりやったんかーい」となります。

 

② 同年8月2日、兄頼朝に謀叛の疑いをもたれた範頼は”起請文”を頼朝に提出。

しかし、頭にキテいる頼朝はその起請文の源範頼の署名を見て、

「#@※ お前ごときが”源”の文字など使うなコラぁ~」と更に激怒!

その報告を聞いた哀れ範頼はオロオロ怯え切ったと伝わります。

 

③ 8月10日夜、悪い事は重なるもので、範頼の家人が頼朝の寝所に忍び込み、

捕まってしまいます。(範頼が頼朝の本心を確かめたかった説あり)

こうなってしまっては「私知りません」と言っても通る訳もなく。

 

④ 8月17日、範頼は伊豆国に流されてしまいます。

その後範頼がどうなったのかは吾妻鏡にも記載が無く、

間もなく梶原 景時(かじわら かげとき)に攻められて自刃したと伝えられます。

(善児がやったのかもですが、梶原景時嫌いです)

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源範頼の流罪の本当の理由は?

 

しかし、納得できませんね~。

優しく、穏やかな弟を、しかも平家滅亡に多大な功績のある英雄を、

曽我事件の黒幕の疑いをかけたにせよ、何故この様な仕打ちが出来るのでしょうか?

三つの理由を考えてみました。

 

① 頼朝には兄弟が多く頼朝自身は3番目、範頼は6番目、義経は9番目と

他にも多数の兄弟が居て、それも腹違いだったりすると冷酷に振舞えた。

 

② 猜疑心が強く、やきもち焼きで一旦思い込むと気持ちが変わらない。

政子や大江から吹き込まれた事もあり、短気MAXになってしまった。

 

③ 範頼が悪くない事が分かっていても、善人で実力のある人間が

万一、周りから担がれるととんでもない脅威になる。

(義経も似たパターンと言えますね)

 

勝手な想像ですが頼朝が範頼を流罪にまでする理由は

この③が濃厚なのではと思われます。

 

つまり、この時代、頼りになる身内は同時に悩ましい脅威と言えたのかも知れません。

その為に政略結婚を繰り返し、人質の取り合いで、関係を雁字搦めにしても尚、

他人が信じられない哀しい世の中だったのかもと想像してしまいます。

 

源範頼の家系図と子孫は?

 

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この家系図で見ると範頼は比企能員の姪の婿になりますね。

また範頼の子孫は範圓から為頼(吉見)と続き現代に続くと思われます。

少し救われた気がしますね~。

 

ネットの反応

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は『源範頼の最期は?流罪の理由は曽我兄弟?家系図と子孫も確認!』

というタイトルで、源範頼(蒲殿)についてお伝えしました。

 

次回で遂に蒲殿が消えると思うと、もう見たくないですね~。

でもやっぱり見たいですよね~。

あー、でももう一人消えそうな方が居たりして。

辛いけど、観ましょうね。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

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