阿野全成の最後は「鎌倉殿」の命令?家系図で子孫についても確認!

   

 

頼朝没後の鎌倉は有力御家人の権力闘争に明け暮れ、

やがて阿野全成も頼家と北条の内紛に巻き込まれる。

今回は、『阿野全成の最後は「鎌倉殿」の命令?家系図で子孫についても確認!』

というタイトルで、阿野全成についてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。(ネタバレ注意!)

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阿野全成のニュース

 

 

 

〈8月7日(日)第30回・全成の確率 NHK総合 午後8時ほか〉

源頼家(金子大地)に対して呪詛(じゅそ)を行った疑いにより、

詮議を受ける阿野全成新納慎也)。

比企能員(佐藤二朗)はその背後に北条家の暗躍があると確信し、対決姿勢をさらに強める。

そのころ北条家では、夫・全成を巻き込まれて激怒した実衣(宮澤エマ)が

父・時政(坂東彌十郎)を追及。

名乗り出ようとする時政だが、りく(宮沢りえ)に止められる。

 

引用:中日スポーツ 8月6日

 

 

阿野全成のプロフィール

 

 

阿野全成
阿野全成.jpg

『武家百人一首』より
時代 平安時代末期 – 鎌倉時代初期
生誕 仁平3年(1153年
死没 建仁3年6月23日1203年8月1日
改名 今若丸(幼名)→隆超→全成
別名 醍醐禅師、悪禅師(通称)、阿野法橋全成
墓所 静岡県沼津市井出の大泉寺
幕府 鎌倉幕府
主君 源頼朝頼家
氏族 河内源氏為義阿野氏
父母 父:源義朝、母:常盤御前
兄弟 義平朝長頼朝義門希義範頼
全成義円義経坊門姫
阿波局北条時政の娘)
頼保、頼高、頼全時元、道暁、頼成、女子(四条隆仲室)、女子(藤原公佐室)

 出展:Wikipedia

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阿野全成の最後は?

 

出展:NHK公式サイト

 

 

正治元年(1199年)に頼朝が死去し、嫡男の頼家が鎌倉殿を継ぐと、

全成は実朝を擁する舅の北条時政と結び、頼家一派と対立するようになる。

建仁3年(1203年)5月19日・子の刻(午前0時頃)、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、

全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた

全成は5月25日に常陸国配流され、6月23日、

頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年51。

 

出展:Wikipedia

 

ドラマでは実衣に「少しでもいい思いをさせたかった。」と泣ける言葉を残した全成さん。

結局は「鎌倉殿」の跡目争いで、頼家に先手を打たれて非業の死を遂げる訳ですが、

その頼家もまた全成同様に他国に流されて暗殺され、凄惨な展開がさらに続くという、

「鎌倉殿の13人」は壮絶な物語なのですね。

 

 

阿野全成の家系図と子孫

 

 

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武家としての阿野氏は時元の系統に受け継がれた。

その子孫は南北朝期までは確実に存在したことが記録に残っているが、

同じ河内源氏の系統に繋がる足利氏などと比べて、

守護にも任命されることがない小勢力でしかなかった。

頼朝(鎌倉殿)に血筋が近すぎたことが北条氏の警戒心をまねいたため

冷遇されたとされている。

その一方、全成の娘は藤原公佐滋野井実国の養子、実父は藤原成親)と結婚しており、

その子実直は母方の全成の家名を称し公家・阿野家(女系子孫)の祖となっている。

後醍醐天皇の寵愛を受け後村上天皇を生んだ阿野廉子はその末裔である。

また、幕末に活躍した玉松操もこの阿野家の末流に連なる。

 

出展:Wikipedia

 

全成の娘は後白河法皇の寵臣だった藤原成親の四男公佐に嫁いだ。

公佐は全成の所領だった阿野荘の一部を領したことから、「阿野」を名乗って一家を興した。

子孫からは後醍醐天皇の寵愛を一身に集め、政治にも介入したとされる阿野廉子が出ている。

以後も公家として代々続き、明治維新後は子爵となって現在まで家名を伝えている。

 

引用:https://www.njg.co.jp/

 

阿野全成の血脈は現代にも続いている様ですね~♪

 

 

ネットの反応

 



 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『阿野全成の最後は「鎌倉殿」の命令?家系図で子孫についても確認!』

というタイトルで、阿野全成についてお伝えしました。

 

阿野全成さんの人生は哀しいですが、ご子孫はのちの世にも活躍されて、

その血脈は現代まで続いているとか・・・

そう思うとなんだか嬉しくなりますね~♪

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

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