宇崎竜童のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!

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8月11日の「徹子の部屋」に、宇崎竜童さんが出演!

宇崎竜童さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『宇崎竜童のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

と言うタイトルで、宇崎竜童さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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宇崎竜童のニュース

 

阿木燿子:夫・宇崎竜童が野菜ラーメン作り 筋トレや散歩で夫婦 ...

出展:mainichikirei.jp

 

徹子の部屋 宇崎竜童&阿木燿子夫妻

 

〜夫が「緊急手術」で妻は“てんやわんや”に⁉〜

宇崎竜童さん&阿木燿子さん夫妻が今日のゲストです。

 

ゲスト

芸能界きっての“おしどり夫婦”宇崎竜童さんと阿木燿子さんがゲスト。

 

番組内容

現在も歌手として第一線でステージに立ち続けている宇崎さんだが、

昨年4月のコンサート数日前に突然腹痛に襲われ、急きょ手術で小腸を40センチ切った。

阿木さんも病院に駆けつけ、手術の同意書にサインしたり…てんやわんやだったという。

最近は2人で筋トレに励んだり、公園を散歩したりと夫婦で過ごす時間が増えている。

宇崎さんは以前よりも家事を手伝うようになり、先日は野菜ラーメンを作ったというが、

その出来栄えは…

 

引用:「徹子の部屋」の番組案内から

 

 

 

 

宇崎竜童のプロフィール

 

出展:Twitter

 

名前:宇崎 竜童(うざき りゅうどう)

宇崎 竜童
出生名 木村 修史[1]
生誕 1946年2月23日(77歳)
出身地 日本の旗 日本京都府京都市[2]
学歴 明治大学法学部[2]
ジャンル
担当楽器
活動期間 1973年 –
レーベル
共同作業者
公式サイト 宇崎竜童公式ホームページ

出展:Wikipedia

 

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宇崎竜童の経歴

 

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出展:natalie.mu

 

 

生い立ち

 

母親の出身地で疎開先だった京都市伏見区に生まれる。

母方のルーツは京田辺市である。

生後間もなく東京に引っ越し、中学卒業まで代々木上原で育った。

渋谷区立上原小学校、明治大学付属中野中学校・高等学校、明治大学法学部卒業。

父親は滋賀県大津市出身で、東京商船学校を卒業して船乗りを経た後に、

代々木上原で船具店を経営し裕福だったが、中学3年生時に父の会社が倒産、

一家は豪邸から借家生活となる。

明大付属中野中学・高校時代はブラスバンド部に所属し、

明治大学時代は軽音楽クラブに所属しトランペットを担当していた。

大学の軽音楽部で同い年の阿木燿子と知り合い作曲活動を始める。

両親の手前もあり、プロを目指すことはなかった。

大学卒業後、内田洋行に就職したが性に合わず1か月で退社した。

 

 

作家プロデビュー

 

その後、義兄の経営する大橋プロでマネージャーを務め、バンド「ミルク」時代の松崎しげるを

スカウトし2年間マネジメントを担当するが、ここも後に退社した。

大橋プロ在籍時には、1969年に阿木作詞・宇崎作曲のコンビで手掛けた、

ジュリー(鍵山珠里)とバロンのシングル『ブルー・ロンサム・ドリーム』でプロ作家デビュー。

全日本歌謡選手権11代チャンピオン・大橋恵子のデビュー・シングル『愛の教室』(1971年2月)の

作曲も手掛けた。

 

 

バンドデビュー

 

コンサートに飛び入り参加したのがきっかけでレコード会社から声がかかった。

1973年に「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成。

シングル「知らず知らずのうちに」でデビューした。

このバンド名は前年1972年に思いついていたが当時のバンドに提案したところ

逆に解散のきっかけになっていたものである。

1974年の「スモーキン・ブギ」が全国的に大ヒットした。

白いつなぎルックと、フレーズのコミカルさとカッコよさをアピールするロックンロールの曲調との

落差で注目された。

さらに翌年のシングル「カッコマン・ブギ」のB面曲「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」も

ヒット、曲中の「アンタあの娘の何なのさ」というセリフは流行語となり、同名映画も作られた。

さらに「商品には手を出すな」という楽曲はラジオでのオンエアで話題となった。

その後「沖縄ベイブルース」を発表した。

77年には「サクセス」がヒット。

 

 

歌謡曲作家

 

同時に歌謡曲の作曲家としての活動も目立つようになった。

山口百恵に1976年「横須賀ストーリー」1977年「イミテイション・ゴールド」

1978年「プレイバックPart2」1979年「しなやかに歌って」1980年「ロックンロール・ウィドウ」

「さよならの向こう側」など数多くの楽曲を提供しヒットさせ、彼女の全盛期を支えた。

 

 

多方面での活躍

 

映画『曽根崎心中』(1978年)、『TATTOO<刺青>あり』(1982年)に主演しているが

『曽根崎心中』は梶芽衣子と友人だったことが、主演のきっかけとなった。

1980年、バンド名を「ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド」に改名するも、

翌年解散した。

解散後はさらにドラマ出演、映画・舞台音楽や監督などに進出。

1984年、音楽的新境地を開くために「竜童組」を結成。

1990年に活動休止。

1993年、元ザ・スパイダースの井上堯之と共に大人のロックバンドを目指すため、

「どちらかが死ぬまで続けよう」との約束で

「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」を結成。

1998年に活動休止するが、2人の約束は維持した。

1998年以降はソロ歌手として活動。

2008年にはデビュー35周年を迎え、2枚組のブルース・アルバム、

2枚組のベスト・アルバムのリリース、記念ライブが行われた。

2008年4月10日、憲政記念館で開催された「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝い­する集い」に

臨席し、祝辞を述べた。

2013年8月22日・23日、「湯布院映画祭」で音楽を担当した作品および出演した作品が

特集上映された。

上映後は阿木と共にシンポジウムに参加。ライブ&トークショーで映画にまつわる9曲を披露した。

2018年1月5日には他のタレントとともに、当時の内閣総理大臣・安倍晋三と会食をおこなった。

2023年デビューから50周年を迎えるのを記念して

「宇崎竜童 50th anniversary 弾き語りLIVE 2023 JUST GUITAR JUST VOCAL」を2月18日

茅野市民館を始め、2月26日横浜市市民文化会館関内ホール、5月13日市川市文化会館で開催。

 

出展:Wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『宇崎竜童のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

と言うタイトルで、宇崎竜童さんについてお伝えしました。

 

宇崎竜童さんと言えば、「アンタあの娘の何なのさ」

でキメるダウン・タウン・ブギウギ・バンド・・・

と思えば山口百恵の『絶体絶命』の作曲家・・・

かと思えば、『らんまん』のジョン万次郎・・・

本当に「なんなのさ」という活躍ぶりですね~♪

しかもおしどり夫婦!素晴らしい!!

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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