古田敦也のプロフィールと出身大学は?経歴や著書についても!

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3月7日の「徹子の部屋」に古田敦也さんが出演!

古田敦也さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『古田敦也のプロフィールと出身大学は?経歴や著書についても!』

というタイトルで、古田敦也さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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古田敦也のニュース

 

テレ朝POST » 古田敦也、28年ぶり『徹子の部屋』出演!同い年の ...

出展:テレビ朝日「徹子の部屋」

 

徹子の部屋 古田敦也

 

〜結婚28年…超多忙な妻との暮らしぶりは…〜

古田敦也さんが今日のゲストです。

 

ゲスト

28年ぶりの登場!古田敦也さんがゲスト。

番組出演のため、妻の元フジテレビアナウンサー中井美穂さんと

「久しぶりに写真を撮った」と仲睦まじい様子を披露!

 

番組内容

演劇賞の選考委員を務める妻は年間約250作品を観劇するため超多忙。

古田さんは演劇鑑賞を趣味にして2人で過ごす時間を作るようにしているという。

子供の頃、両親に料理を教わった古田さん。

働く両親にかわり妹の分も食事を用意する少年だったため、

今でも食事の支度は自分でするという料理男子な一面ものぞかせる。

また、長嶋一茂さんとは日米大学野球の頃からの知り合い。

高校時代は無名だった古田さんから見ると一茂さんは…

 

引用:「徹子の部屋」の番組案内から

 

 

 

 

古田敦也のプロフィール

 

出展:twitter

 

古田 敦也
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2019年7月11日
引退後に行われたOB戦イベントにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県川西市
生年月日 1965年8月6日(57歳)
身長
体重
182 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1989年 ドラフト2位
初出場 1990年4月11日
最終出場 2007年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2006 – 2007)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2015年
得票率 76.8%(332票中255票)
選出方法 競技者表彰
古田 敦也
YouTube
チャンネル
活動期間 2021年4月22日 –
ジャンル 野球
登録者数 約51.8万人
総再生回数 134,220,465回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年10月20日時点。
オリンピック
男子 野球
1988 野球

出展:Wikipedia

 

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古田敦也の経歴

 

出展:twitter

 

 

生い立ち

 

川西市立加茂小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入団。

100人ほどの小学生が所属していた少年野球チームであり、AからDの4チームに分かれていた。

入団直後、Dチームに入れられたが、Dチームにはキャッチャーがいなかったという理由と

「(当時)太っていたから」という理由で捕手を任される。

少年時代に好きだった選手は梨田昌孝である。

また、当時は阪急ブレーブスのファンクラブ組織である

「ブレーブスこども会」の会員でもあった。

地元では宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代から注目され、高校進学時には私立校から

誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、

高校3年間はほぼ無名の存在だった。

 

3年の8月から受験勉強を始め、関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、

どちらも合格した。

合格後は高校時代の監督から立命館の練習に参加するよう勧められ、そこで評価を得た。

当時、関西学生野球リーグにおいて関西大学は立命館大学より強豪だったため、

関西大学への進学を決めて、入学を断るつもりで立命館大学へ挨拶に出向いたところ、

古田を勧誘していた立命館大学硬式野球部監督の中尾卓一に大喜びされ強引に押し切られた。

またその夜、先輩に高級料亭における夕食に誘われ、京都の祇園の夜の街に魅せられたことで

心変わりし、1984年春に立命館大学に入学して、硬式野球部に入部した。

同期の同学科には寺地永が居る。

 

 

立命館大学時代

 

高校時代は裸眼の視力は0.5程あったが、受験勉強により、0.1にまで下がった。

大学キャンパス内で先輩に会った際に大きい声であいさつしなければならないため、

大学に入ってから眼鏡をかけるようになった。

古田は「見えませんでした、気がつきませんでしたじゃすまされないんで、

もう眼鏡をかけるしかないと…」と語っている。

 

当時の関西学生野球リーグは近畿大学の全盛期であったが、3年時の1986年には、

エース岩本利仁とバッテリーを組み、チームを春季・秋季連続優勝に導く。

4年時の1987年にはキャプテンを務め、日米大学野球選手権大会日本代表に選出されるなど

その実力はプロ各球団からも注目され、この頃にプロを目指すようになった。

リーグ通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。

ベストナイン(捕手)に4度選ばれた。

 

野球部の中尾監督に日本ハムのスカウトから上位指名の連絡が入っていたため、

11月18日のドラフト会議当日には大学が会見用のひな壇を設置し、

垂れ幕まで用意されていたが、指名を確約された球団を含めどの球団からも指名されなかった。

当時日本ハムファイターズ球団常務だった大沢啓二によると、「古田は鳥目だ」という

真偽不明の情報が流れたことによって、日本ハムは指名を取りやめたと

後に新聞連載に記載している。

また、2009年の自著ではやはり乱視が原因なのではないかと振り返っており、

後のインタビューでも古田はメガネが原因で外れたと語っている。

後年に古田は、この際の屈辱が自身の反骨心に火をつけ、意地でもプロで活躍してやるという

強い気持ちに繋がったと述べている。

プロ入りが成らなかった古田は一般枠で新卒採用に応募し、トヨタ自動車から内定を得て、

1988年3月に立命館大学経営学部を卒業して経営学士号を取得した。

 

 

トヨタ自動車時代

 

1988年4月、トヨタ自動車に入社した古田は人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には

従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた。

新人研修ではディーラーで営業の仕事もした。

古田は社会人野球時代を経たことで普通の金銭感覚が身につき、

当時の経験がプロ入り後にも役立っていたと語っている。

 

トヨタ自動車硬式野球部では1年目から正捕手を任され、

主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。

8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表となるが、古田は当時

「(プロに行くために)五輪メンバーに選ばれないといけない」と考え、

ジャパンの監督が誰か、バッテリーコーチが誰かと調べて、野球観を調べた。

すると「元気があって、国際大会の環境の悪い中でもへこたれない、あきらめないやつが好きだ」

との情報を得て、すぐに実行。何十人と来る選考会で

「ボール回しでも“ヤー”とか言いながら、一生懸命、声出して野球をやった」。

そして、見事に日本代表の座を射止め、野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組み、

決勝でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。

 

古田は1989年のドラフト会議に際し、巨人かヤクルトを希望していると報じられた。

ヤクルトは大卒時の1987年のドラフトでも古田を指名候補に入れていたが、

この時は2位以上でないとプロ入りしないとの情報を受けて事前に撤退したとされている。

ただし、この時のドラフトでヤクルトから1位指名された長嶋一茂によれば、

立教大学の先輩で父の茂雄とも親しかったスカウト部長の片岡宏雄に

「古田くんをなぜ獲得しないんですか?」と聞いたところ、「メガネだ。目」と

メガネが理由であることを聞かされ、疑問に思ったと語っている。

 

当時のヤクルト野手陣は関根潤三監督の下で池山隆寛、広沢克己ら若手が急成長し

次々とレギュラーを獲得して着実に陣容が強化されていたが、

その中で唯一残されていた課題が捕手だった。

ベテラン八重樫幸雄の後の正捕手の座を争っていたのは主に秦真司と中西親志の二人だったが、

秦は打撃に優れるが守備難で捕逸が多く、中西は捕球に優れるが打撃が打率二割に満たない

非力さで、さらに両者共に盗塁阻止率が低かったので、

強肩・好守の即戦力捕手の獲得が急務だった。

自身も捕手だった片岡スカウト部長は、オリンピックで経験を積んで進境著しい古田のプレーに

惚れ込んで獲得に動き、担当スカウトの羅本新二に古田との交渉を進めさせ、

夏の編成会議で相馬和夫球団社長、田口周球団代表、関根監督ら球団首脳に古田を強く推薦して

了承を取り付け、古田の2位指名が内定した。

古田はトヨタへ挨拶に訪れた片岡からドラフト指名の意思を正式に伝えられたが、

大卒時にプロ球団の裏切りに遭っていた古田は不信感を拭い去ることができず

「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も片岡に念を押している。

しかし、10月に相馬・田口の推す若松勉ではなく、ヤクルト本社社長の桑原潤が推す野村克也が

新監督に就任すると状況が一変する。

野村は大学の間に変なクセがついてしまう傾向があるなどとして「大学出に名捕手はいない」

という持論を展開しており、就任直後の『週刊ベースボール』の取材に対しても、

高卒4年目で強肩の若手・飯田哲也を自らの手で正捕手に育て上げるという構想を示していた。

そして大卒社会人で眼鏡をかけている古田の指名をやめるよう要求してきたが、

片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と反発。

球団幹部も古田指名の方針を崩さなかった。

片岡は指名直前にも野村が「古田はやめよう。捕手はワシが育てる」と食い下がったと

語っているが、ヤクルトは当初の予定通り古田を2位で指名した。

 

これに対し野村は自著で、就任直後のドラフトに際し自分が片岡に今年のドラフト候補に

良い捕手はいないのかと質したところ、片岡が古田の名前を出して

「メガネをかけているんですが…」「打撃には目をつぶってもらえますか」と言ってきたので、

メガネをかけていても問題は無いと言って古田を獲得するよう命じたと主張。

また古田との対談でも「編成部長(※スカウト部長の誤り)に『いいキャッチャーいないか?』

って言ったら、『一人います。でも、メガネかけているんですよね』って。

これが、後々俺が大反対しているように言われて。俺言ったことないから」と大笑いし、

「今、コンタクトもあるし、レンズも軽量化して問題じゃないのに、そんなこと言う訳ない。

あれには参った。

それで編成部長が言うのよ。『バッティングは目をつぶってくれますか?』って。

まあ、キャッチャーは守れて、頭よくて、肩が強ければそれで十分って言って、

それで(古田獲得に)いこうって。

まさか獲れるとは思わなかったけど、これも一つの縁だよね」と主張し、

上記片岡の意見とは対立している。

 

そもそも、野村と片岡の間には同年ドラフトでの黒須陽一郎をめぐる一連の問題を発端とする

ドラフト指名戦略の違いや片岡が懇意にしていた立大野球部の一つ上の先輩でもある

長嶋茂雄に対する野村の度重なる挑発、そしてその息子・一茂の扱いへの不満など、

様々な問題を巡っての根深い確執があり、古田指名の件についても当時ヤクルトのスカウトだった

鳥原公二(後にスカウト部長)は「野村はドラフト前の会議まで古田との指名約束があること自体を

知らなかったため、会議では「もう決めている選手がいる」と訴えるスカウト側との間で

攻防があった。

古田の指名についても野村は「メガネをかけているなぁ」と独り言をつぶやいただけで、

メガネがダメという話はなかった」と片岡とは異なる見解を述べている。

 

 

ヤクルト選手専任時代

 

1990年、新人の中では1位指名の西村龍次と古田がユマの一軍キャンプメンバーに選ばれた。

取材陣からは「即戦力の西村と古田が、どれ位の力を出せるかで今年のヤクルトの戦力アップに

つながるか解る」と評価される一方で、野村はキャンプでも記者に対して

「メガネを掛けているとマスクがズレる」と語るなど、古田への評価はマスコミと野村とで

温度差があった。

キャンプ終了後、野村は前年の主戦捕手だった秦真司と中西親志の二択から当面の正捕手を

秦真司に定め、4月7日の開幕戦は秦がスタメン出場し古田を控えに回した。

しかし野村は秦の捕手としての能力を買っておらず、

前年には飯田を正捕手として育成する構想すらもっていた。

そして秦は打撃力を活かすために三塁にコンバートする方針だったが、

広沢克己を三塁に回す為にコンバートを延期し、やむなく秦を暫定起用した。

ところがやはり秦はリードや守備での不安を露呈し、第三捕手兼代走としてベンチ入りしていた

飯田が4月24日に急遽二塁にコンバートされていたこともあり、

4月28日に古田が初めてスタメンで出場する。

古田をこの時期にスタメンに抜擢した理由について、野村は

「秦や中西のリードに納得できなかったので仕方なく「古田、お前行け」と命じたのが

きっかけだった」と述べている。

6月上旬までは秦と併用されていたが、新外国人ドウェイン・マーフィーが離脱して

そのポジションが空くと野村は秦を外野にコンバート。

スタメンに定着した古田の実力はライバルチームからも高く評価されるようになり、

新人ながら監督推薦(藤田元司監督)でオールスター出場を果した。

そして、試合に出るようになると野村は古田を試合中に叱るようになるが、

ここでも古田は持ち前の負けん気を発揮し「どうせ怒られるなら近くにいようと思って

「すいませんここに座らせてください」と言って近くに座るようになりました」と

ポジティブな姿勢を示した。

また、当時について「その時に違う指揮官だったり「力と力のガチンコだ」とかばっかり

言われていたら僕もそういう選手になっていたと思います。

たまたまそこで出会った指揮官がそういう強い気持ちとか攻撃的な気持ちを持つのは当たり前で、

それに加えて頭を使えと「頭使えたら弱いやつでも勝てる」という考えだったので

僕も若かったですし、非常に勉強にもなりましたね。

非常に腑に落ちましたし、そういう意味ではいい刺激を与えていただいたと思っています」と

古田自身の野球観の変化を語っている。

シーズン後半は中西と併用されたが古田は攻守両面で中西を上回り、

正捕手の地位を確かなものとした。

大矢明彦以来となる新人の盗塁阻止率リーグ1位(.527)を記録してゴールデングラブ賞受賞を

果たし、課題とされていた打撃面でも334打席に立って打率.250、26打点と及第点の数字を残した。

 

先輩捕手だった八重樫は「古田がレギュラーになってピッチャーとキャッチャーが

よく話をするようになったと思います。

若い投手が多かったし、古田とも年齢が近かったから、試合後にも自発的にミーティングを

するようになっていたね。

それまでは”一方通行”だったけど、その点は大きく変わった」

「古田の存在はとても大きかったですから。古田の高い要求に、しっかり応える好投手たち。

野村監督時代はバッテリーを中心にしっかりとした野球をしていた。そんな印象がありますね」

と古田を称えた。

 

1991年、オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、

MVPを受賞。

シーズンでは落合博満との競り合いの末、最終戦に出場した古田が再逆転し打率.340で

首位打者を獲得。

首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、

捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ

史上3人目だった。

当時の4番広沢克己は古田と落合の首位打者争いについて

「ペナント最終盤に古田の打率が落合さんよりわずかに上だったので、

本当は最終戦も休むはずでした。

野村さんはああ見えて優しいところがあり、自分も現役時代に激しいタイトル争いをしたので、

愛弟子、それも同じ捕手の古田に何とかタイトルを取らせてあげたかったんです。

選手も同じで、チーム全員が古田に首位打者を取らせたいと思っていた。

だからこそ、中日とヤクルトの最終戦では批判を怖れることなく、落合さんを全打席で敬遠した。

ところが落合さんが広島とのダブルヘッダーで6打数5安打の固め打ちをして、

首位打者に躍り出た。

古田が再逆転するには最終戦に出てヒットを打たなくてはなりません。

強いプレッシャーの中、試合前の古田は緊張しながら準備した最終戦の1打席目でヒットを放ち、

落合さんをわずか3毛差でかわし、見事に首位打者になりました。

あの重圧の中、よく打ったものだと思う」と語っている。

 

1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。

同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、

オールスター史上初のサイクル安打を記録し、MVPを受賞した。

シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、

リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、

ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。

日本シリーズ(対西武ライオンズ)にも出場したが、チームは3勝4敗で敗れる。

 

1993年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たしリーグ優勝の原動力となり、

シーズンMVPに選ばれた。

この年の盗塁阻止率.644は現在も破られていない日本記録である。

日本シリーズでは前年と同じ西武ライオンズとの対戦で、伊東勤との捕手対決が話題となる。

チームは4勝3敗で日本シリーズを制覇。

 

1994年は4月14日の対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて

右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱、結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、

19打点という成績でチームも4位に終わる。

 

1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでは

イチローとの対戦が注目を集めた。

ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、

4勝1敗で2年ぶりの日本一となった。

同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。

1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322、本塁打は9本ながら

勝負強い打撃でリーグ6位の86打点を記録するなど活躍。

西武ライオンズとの日本シリーズを4勝1敗で制覇し、捕手として初めて

セ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。

 

1998年には通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。

同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。

オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、

労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した。

若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われた

2000年シドニーオリンピックの野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の

日本代表にチーム最年長選手として選出された。

2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。

ヤクルトは3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。

 

2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、

左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。

8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。

復帰当初は主に代打での出場だった。

9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、

後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。

10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。

シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。

大阪近鉄バファローズとの日本シリーズは14打数7安打、打率.500、本塁打1、打点7を記録し、

4勝1敗で勝利し、自身2度目のシリーズMVPを受賞した。

 

2002年4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割を記録した。

また満塁では11打数8安打(打率.727)を記録するなど満塁での勝負強さが光った。

2003年開幕直前に右手薬指を骨折したが完治しないまま開幕戦を強行出場する。

6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録。

シーズンでも先発マスクは一試合だけ欠場しただけで打率こそ2年ぶりに3割を割ったが

1995年以来の20本塁打以上を記録した。

 

2004年開幕から打撃好調でタイトル争いにも加わっていたが、

上記にあった通り球界再編による選手会の活動が激務で日に日に成績は下降。

なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した(これが現役最後の規定打席到達だった)。

39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、

打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、

148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。

一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。

 

2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、

大卒・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000安打を達成。

しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。

これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。

さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し

11年ぶりに規定打席未到達となり、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。

10月5日には通算1000打点を達成した。

 

 

ヤクルト選手兼任監督時代

 

2005年限りで若松が監督を退任、後任として古田に白羽の矢が立つ。

10月18日、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、

翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで球団と合意した

(選手として1年契約、監督としては2年契約)。

 

ファンサービスの改善策について球団と交渉を続け、球団外部からカカクコム社長(当時)の

穐田誉輝らを招聘。

「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。

古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。

12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された。

監督としての最初の仕事は、翌2006年シーズンに契約を結ばない選手を決めることであった。

編成担当から名簿を渡され「いらない選手に×してください」と、頼まれたが、

本人は後に辛かったと振り返っている。

 

2006年、メディアや評論家はそれまでの堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」

と予想していたが、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、

5番グレッグ・ラロッカという攻撃的な布陣を敷く。

同年の総本塁打161はリーグ最多、総得点669も中日ドラゴンズと並ぶリーグ最多タイだった。

一方投手陣は駒数が揃わず、特にリリーフ陣は石井弘寿と五十嵐亮太の怪我及び不調が原因で

固定できなかった。

監督として70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位の成績を残したが、

選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己最低に終わった。

同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上

最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。

 

 

現役引退・監督退任

 

2007年、ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、最終的にラミレスが

セ・リーグ最多(プロ野球歴代5位)となる204安打を記録し、タイトルを獲得。

一方古田は通算2000試合出場こそ達成したものの、その記録を達成した試合では、

横浜・石川雄洋が大量得点差のついた状況で盗塁を試みたことに端を発する遠藤政隆の

危険球判定にめぐって審判との口論の末に「(審判には)常識がない」という趣旨の

暴言を吐いたという理由で退場処分を受けた上、前年から抱えていた右肩痛の回復が遅れ

8月までに出場した試合はわずか3試合だった。

自身の出場選手登録も2度抹消するなど、ベンチで采配に専念する日々が続いた。

 

9月17日、ヤクルトのBクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった時点で

辞意を固め、9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で

「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表した。

会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、

誰かに責任を負わすわけにもいかない」と語った。

引退・退任を表明した後、「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」などの声が

ヤクルトファンのみならず、他球団のファンからも飛び交った。

 

9月27日の対広島戦でシーズン初安打を放つ。

敵地・広島市民球場での試合であったが、試合後には広島監督のマーティ・ブラウンから

花束を送られ、古田がそれに応え両軍ファンにサインボールを投げ込む

ささやかなセレモニーが行われた。

過去に所属経験のない相手球団の主催試合で引退セレモニーが行われるのは異例のことであった。

 

神宮球場における最後の出場となった10月7日、古田の引退試合が行われた。

奇しくも対戦相手は同じ広島であった。

神宮での最終打席となる8回裏の第4打席では、前日に広島市民球場で引退試合を行ったばかりの

佐々岡真司が登板し

(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた。佐々岡にとってこれが現役最後の登板となった)、

遊ゴロに終わった。

古田は後年「(この日の最終打席で)佐々岡が登板することは聞いていた」ことを明かしており、

「球が遅いんですよ。(佐々岡も選手としてのピークは過ぎており)プロの球じゃないんです。

もうトロトロトロって。もっとピュッときてくれんかなと。

『これ引っ掛けるわ』と思ったらショートゴロだった」と対戦を回顧している。

また、この試合の8回には石井一、9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。

引退試合翌々日の10月9日ヤクルトのシーズン最終戦(横浜スタジアム)、アダム・リグスの

代打として最後の打席に立ち、吉見祐治からレフト前に現役通算2097本目のヒットを放って

有終の美を飾った。

 

10月11日、監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、

堀澄也オーナーと会談。

その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、快諾した。

また球団からは功労金として5000万円が贈られた。

一方、前日の10月10日、球団が高津臣吾に対し突如戦力外を通告した件について、

球団フロントからの事前通告や話し合いの機会が一切なかった件などに言及するなど、

最後までフロントとの間に軋轢が残った。

 

 

現役引退後

 

2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。

11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」に

コメンテーターとして復帰した。

11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演し、その後はコメンテーターとしてテレビ出演。

解説者としての初出演は2007年アジア野球選手権大会・野球日本代表の試合(テレビ朝日)。

2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなく

フジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演した

(なお、プロ野球中継解説者としてはテレビ朝日だけ所属契約しているものの、

特定局との専属契約はせず、フリーでの出演)。

 

2015年1月23日、野球殿堂において255票獲得しプレーヤー表彰に選出された。

一問一答での「捕手とは?」の質問には、

「相手の嫌がることをやらなきゃいけない。死球を当てると厳しく対応される時代だったが、

それをかいくぐりながら、そこそこ成績を残せた」と現役時代を振り返った。

野村克也は「私がヤクルトで9年間監督を務めた間に4度優勝したが、持論である

『優勝チームに名捕手あり』を体現できた。古田の成長と合わせて、ヤクルトは強くなっていった。

殿堂入りを誇りに思う。当時の選手では初めての殿堂入りは当然だろう」

と祝福のコメントを寄せた

2016年には「第11回 BFA U-18野球チャンピオンシップ」「第7回女子野球ワールドカップ」

「第1回 U-23 野球ワールドカップ」の3大会のアンバサダーを稲村亜美とともに務める

(BS-TBSの中継番組にも大会アンバサダーとして出演)。

2019年4月からは静岡県焼津市内の複数企業による企業複合型の

社会人野球クラブチーム・焼津マリーンズのアドバイザーに就任。

これはクラブ代表の戸﨑義人がトヨタ自動車時代のチームメイトだった縁によるものである。

2021年にはヤクルトの春季キャンプ第2クールからの臨時コーチを務める。

ヤクルトへの指導は14年ぶりとなり、ブルペン捕手として石川雅規と14年ぶりに

バッテリーを組んだり、打撃投手として投げ込んだりなど、

熱のこもった指導が多く取り上げられた。

同年3月20日、日本女子ソフトボールリーグ機構理事に就任することが発表された。

2023年2月、3年連続となるヤクルトの春季キャンプの臨時コーチを務めた後、

2月15日から同月末までMLBのアリゾナ・ダイヤモンドバックスの

臨時コーチを務めることが発表された。

 

 

著書

 

単著

共著

 

 

出展:Wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 


 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『古田敦也のプロフィールと出身大学は?経歴や著書についても!』

というタイトルで、古田敦也さんについてお伝えしました。

 

古田敦也さんがなんでアイドル業界に詳しいんだろ?

徹子の部屋では触れなさそうですが、

ちょっと気になりますね~。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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