安達盛長の鎌倉殿没後は?息子景盛事件や家系図の子孫も調査!

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盛り上がる「鎌倉殿の13人」で、頼朝の”死”に立ち会ったのは安達盛長でした。

頼朝不遇時代から彼を支え続けた宿老の身にその後何が起きたのでしょうか?

今回は『安達盛長の鎌倉殿没後は?息子景盛事件や家系図の子孫も調査!』

というタイトルで安達盛長についてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

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安達盛長のニュース

 

画像

出展:NHK

 

 

頼朝は北条家親族の追善供養に出席するために、従者の安達盛長(野添義弘)と共に

相模川を訪れる。

頼朝はそこで北条義時(小栗)と顔を合わせると“鎌倉殿”を息子・頼家(金子大地)に

継がせようと考えていることを明かす。

そして晴れやかな表情で「人の命は定められたもの。抗ってどうする?

甘んじて受け入れようではないか。受け入れた上で、好きに生きる。

神仏にすがって怯えてすごすのは時の無駄じゃ…」と心境を打ち明ける。

その後、頼朝は盛長を連れて鎌倉御所へ戻ろうとする。

その道すがら、馬に乗って話していた頼朝は徐々に呂律が回らなくなると、

そのまま落馬。

駆け寄った盛長は目を覚さない頼朝に対して「佐殿ー!」と昔の呼び名を叫ぶのだった。

頼朝が落馬すると、ネット上には「ああ、いよいよ…天命尽きたか」

「残酷で、あっけない」「めっちゃ死亡フラグ出してたけどほんとに死ぬの?え?」

などの声が続出。

さらに「「佐殿!」呼びは泣ける…」「胸が苦しくなった、辛い」

「安達盛長の「佐殿!」に涙…」といったコメントも相次いでいた。

 

 

佐殿(すけどの)という呼び方は、頼朝と盛長二人にとって不遇時代からのもので、

そこには、「こんなことなら鎌倉殿でなくて佐殿のままが良かった」という

心の叫びが込められていて、盛長の悲壮感を煽る演出だったと思われますね。

 

 

安達盛長のプロフィール

 

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の安達盛長 | 開運戦隊 御朱印ジャー

 

安達盛長
Adachi Morinaga.jpg

安達盛長法体像(集古十種より)
時代 平安時代末期 – 鎌倉時代初期
生誕 保延元年(1135年
死没 正治2年4月26日1200年6月9日
改名 盛長、蓮西
別名 藤九郎
墓所 愛知県蒲郡市五井町岡海道 長泉寺
伊豆市修禅寺温泉場 梅林登り口
幕府 鎌倉幕府 十三人の合議制
上野奉行人三河守護
主君 源頼朝頼家
氏族 藤原氏魚名流安達氏
父母 父:小野田兼広、または小野田兼盛
兄弟 藤原遠兼
丹後内侍
景盛時長源範頼

 

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安達盛長のその後について

 

1199年、頼朝が亡くなると安達盛長は出家して「蓮西」と号し、

三河国の守護となりましたが、頼家が将軍の後継ぎとなり、

13人の合議制にも参加します。

盛長はその時既に65歳だったと言います。

 

若き将軍頼家を補佐するスタンスの『鎌倉殿の13人』の合議制ですが、

同時にこの事が”鎌倉抗争”の始まりだったとも言えます。

頼家の専制政治志向に対して鎌倉の有力御家人達は異を唱えたのでした。

 

合議制発足4ヶ月後の事、安達盛長の嫡子・景盛(かげもり)が

将軍頼家に殺されかけるという事件が起こります。

 

事の発端は、将軍頼家が安達景盛の愛妾を奪った上に、

「あいつはその事を恨んでワシを殺そうとしておるからイてまえ~」みたいに、

とんでもないワルぶりを発揮したと言うから驚きですね。

 

この騒動は将軍頼家の母、北条政子の「安達は悪くない」

「安達を討つなら母を討ってからにしなさい」の言葉で一応落着した様ですが、

この事を機に、北条と安達はより親密な間柄となり、

両家は将軍家と距離を置くようになったという事です。

 

安達盛長の家系(略)図を見ると

安達景盛から子孫は多く、家系は続いた様ですね。

 

安達盛長家系略図

安達宗景 - Henkipedia

出展:Henkipedia

 

 

ネットの反応

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は『安達盛長の鎌倉殿没後は?息子景盛事件や家系図の子孫も調査!』

というタイトルで安達盛長についてお伝えしました。

それにしても、安達盛長を演じる野添義弘さん!イイ感じですね~♪

控えめで、まじめ、まともでユーモアも感じられます。

ナイスキャスティングですね!

安達盛長は頼朝が最も信頼していた人なのでしょうね。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

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