三浦義澄「鎌倉殿」の死因!家系図で北条時政との関係や子孫も確認!

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でいつも仲良しの北条時政と三浦義澄は、

どの様な関係なのでしょうか?死因や子孫についても調べてみました。

今回は『三浦義澄「鎌倉殿」の死因!家系図で北条時政との関係や子孫も確認!』

と言うタイトルで、三浦義澄についてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。( ネタバレ注意!)

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三浦義澄の略歴

 

三浦義澄とは?源氏に忠義を尽くし、三浦氏全盛期を築いた三浦 ...

出展:NHK

 

 

1127年 1歳 三浦義明の次男として誕生

1159年 33歳 平治の乱に参戦

1160年 34歳 源氏敗北、頼朝配流

1175年 49歳 頼朝とその岳父伊藤祐親が対立

1179年 53歳 京都大番役従事

1180年 54歳 頼朝挙兵に参加、父義明戦死

1182年 56歳 伊藤祐親お預かるも、祐親自害

1184年 58歳 源範頼と平氏討伐

1185年 59歳 壇ノ浦合戦で功績、平氏滅亡

1189年 63歳 奥州征伐に参加

1190年 64歳 頼朝の上洛に従う

1192年 66歳 頼朝の征夷大将軍任命書受領

1199年 73歳 頼朝死去、鎌倉殿の13人衆に参加

1199年 73歳 梶原景時を弾劾

1200年 74歳 梶原景時の死の3日後に死去

 

出展:サプライズBOOK 「鎌倉殿13人衆 北条義時」赤池広行著

 

三浦義澄のプロフィール

 

三浦義澄
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三浦義澄/『前賢故実』(江戸時代
時代 平安時代末期 – 鎌倉時代初期
生誕 大治2年(1127年
死没 正治2年1月23日1200年2月9日
別名 荒次郎、新介(仮名)
墓所 横須賀市大矢部 薬王寺(現清雲寺)
官位 三浦介相模守護
幕府 鎌倉幕府 十三人の合議制
主君 源頼朝頼家
氏族 桓武平氏良文流、三浦氏
父母 三浦義明秩父重綱の娘
兄弟 杉本義宗義澄大多和義久佐原義連
多々良義春長井義季杜重行
源義朝側室、畠山重能室、
金田頼次室、長江義景
正室:伊東祐親の娘
友澄義村重澄胤義、他

 出展:wikipedia

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三浦義澄と北条時政との関係

 

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三浦義澄と北条時政との関係は二人とも伊藤祐親の娘婿であり、【義兄弟】になりますね。

因みに、三浦義村と北条義時は義理の従弟同士という事でしょうか。

 

三浦義澄の子孫は義村から続きますが、北条義時の曾孫時頼(5代執権)の時代、

1247年、評定衆だった三浦泰村(義村の次男)が、

名越光時らの陰謀(前将軍九条頼経を擁して幕府の実権を奪おうとした)

をきっかけにした北条氏との疎隔が元で起こった合戦により、

あれ程仲の良かった北条氏に三浦家は滅ぼされてしまいます。

 

三浦泰村はじめ一族近親者約500名が鎌倉法華堂で自害するという

壮絶な結末を迎える事になります。

 

 

三浦義澄の死因

 

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 出展:NHK

 

1199年、頼朝没の時点で、義澄は73歳とかなりの高齢者であり、

頼朝後の「13人衆」に選出されたものの幕府の主導権争いに参加する事は叶いませんでした。

およそ1年後、梶原景時追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に、

義澄も病に倒れました。享年74歳。

 

ネットの反応

 



 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は『三浦義澄「鎌倉殿」の死因!家系図で北条時政との関係や子孫も確認!』

と言うタイトルで、三浦義澄についてお伝えしました。

 

鎌倉殿の13人の中で病死したのは三浦義澄と安達盛長くらいでしょうか?

後は殆どマトモな死に方ではなかった様です。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

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