山田邦子のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!

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4月21日の「徹子の部屋」に山田邦子さんが出演!

山田邦子さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『山田邦子のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

というタイトルで、山田邦子さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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山田邦子のニュース

 

写真 2/3枚】山田邦子:母の介護、友人の死で「自分の死に際 ...

出展:テレビ朝日「徹子の部屋」

 

徹子の部屋 山田邦子

 

〜母の介護に奮闘!友人が相次いで逝き…〜

山田邦子さんが今日のゲストです。

 

ゲスト

芸能生活42年になる山田邦子さんがゲスト。

母・昭子さんの介護生活が始まり2年が経ち、これまでの奮闘の日々について明かす。

 

番組内容

弟が24時間付きっきりで母の介護をしていたため一時は体調を崩し…

介護する側が健康でいる事の大切さに気づいたという。

私生活でも親交の深かった渡辺徹さんと笑福亭笑瓶さんが相次いで亡くなり、

最近は自分の死に際について考えるようになったと語る。

2人との懐かしい写真と映像で当時の思い出を振り返り、涙する場面も。

20年以上前に始めた「長唄」では名取を襲名、現在は先生として教えているそう。

今日はその長唄を披露!

 
 

引用:「徹子の部屋」の番組案内から

 

 

 

 

山田邦子のプロフィール

 

出展:Twitter

 

山田やまだ 邦子くにこ
ニックネーム 邦ちゃん
生年月日 1960年6月13日(62歳)
出身地 日本の旗 日本東京都荒川区
血液型 B型
身長 168 cm
言語 日本語
方言 標準語
首都圏方言
最終学歴 川村短期大学家政科(現:生活学科)
芸風 漫談
物真似
コント
事務所 太田プロダクション
フリー
アスリート・マーケティング
活動時期 1981年 –
同期 笑福亭笑瓶
大木こだま・ひびき
ブッチャーブラザーズなど
現在の代表番組 山田邦子のルーズベルトな夜
過去の代表番組 オレたちひょうきん族
いきなり!フライデーナイト
MOGITATE!バナナ大使
邦ちゃんのやまだかつてないテレビ
他の活動 小説家
杵屋きねや勝之邦かつのぶくに長唄杵勝会名取
沼津市観光大使[1][注釈 1]
帯広市観光大使
北海道陸別町友好町民の会親善大使
東京都青少年名誉健全育成協力員
宇都宮餃子伝道師
スター混声合唱団団長
山田町復興ふるさと大使
配偶者 後藤史郎
受賞歴
1981年 全日本有線放送大賞 新人賞[2]
1982年 第10回 日本放送演芸大賞 ホープ賞
1983年 第11回 日本放送演芸大賞 ホープ賞
1983年 第3回 花王名人大賞 新人賞
1984年 第12回 日本放送演芸大賞 ホープ賞
1985年 第13回 日本放送演芸大賞 敢闘賞
1989年 平成元年度 ゆうもあ大賞 大賞
1990年 第27回 ゴールデン・アロー賞 芸能賞
1990年 第13回 日本アカデミー賞 新人俳優賞
1992年 日本女性放送者懇談会賞[3]
2010年 日本釣用品工業会選定 ロイヤルアングラー賞 芸能部門
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山田 邦子
(やまだ くにこ)
ペンネーム 山田 邦子
(やまだ くにこ)
誕生 1960年6月13日(62歳)
日本の旗 日本東京都板橋区
職業 お笑いタレント女優司会者小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 川村短期大学家政科(現:生活学科)
活動期間 1983年 –
ジャンル 小説作詞随筆漫画
代表作 さよならだけどさよならじゃない』(1991年
『結婚式』(1992年
『マリッジ・ブルー』(2000年
デビュー作 エッセイ
『センセーショナル邦子 ギャグダンス』(1983年
小説
『あっかんベーゼ』(1990年
Portal.svg ウィキポータル 文学
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YouTube
チャンネル
活動期間 2020年 –
ジャンル エンターテイメント
登録者数 7.12万人
総再生回数 13,772,707回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年5月11日時点。

出展:Wikipedia

 

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山田邦子の経歴

 

画像

出展:Twitter

 

 

芸能界デビュー

 

東京都荒川区東尾久に、兄・弟と両親による5人家族の長女として生まれる。

幼稚園に入る前に森下町の母の実家に家族で転居、祖父母が以前経営していたアパートを

1つの大きな家に改造して家族、祖父母、母の兄妹という大所帯となって暮らし始めた。

川村中学校、川村高等学校卒業。

在学時に物真似を披露したことで学校中に名前が知られるようになる。

1979年、川村短期大学(現在の川村学園女子大学)に入学後、落語家を目指して早稲田大学の

寄席演芸研究会へ入部。

可愛家マッハ」の芸名で活動する。

当時は5代目三遊亭圓楽の熱烈なファンで、通っていた短大の真裏には5代目柳家小さんの

邸宅があった。

しかし落語家には向いていないと悟り、漫談家への転向を決意。

同芸名のまま漫談に才能を発揮した。

また、学生時代には「のりこ・くにこ」として漫才コンビの活動をしていた。

 

高校1年時に西城秀樹のものまねで『TVジョッキー』(日本テレビ)へ出演したのを手始めに、

『クイズ・ドレミファドン!』(フジテレビ)や『ひるのプレゼント』(NHK総合テレビ)に出演。

『タモリの突撃ナマ放送』(東京12チャンネル、現:テレビ東京)では5週勝ち抜きするなど、

数多くの素人参加番組に出演。

素人時代はとんねるずと共に素人参加番組の常連として有名な存在だった。

『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)火曜日のツービートが担当した人気コーナー

「ブスコンテスト」に応募し、オーディションで目を付けられ、素人勝ち抜きコーナー

「お笑い君こそスターだ!」に出場。

ここで中学以来の持ちネタであるバスガイドのネタを披露しチャンピオンになった。

プロデビュー当初は太田プロダクションに所属。

1981年にバスガイドネタの『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)』でレコードデビュー、

右手をご覧ください、一番高いのが中指でございます」などのギャグで人気を博す。

1981年の流行語「ぶりっ子」は、山田がギャグに使ったことから一般的な流行語になったとされる。

 

会社員である父は娘の芸能界入りに反対しており、関口宏が懸命に父を説得したという逸話がある。

なお、芸能界デビュー前に関口が司会の『クイズ100人に聞きました』(TBS)に家族で挑戦し、

予選で敗退している。

関口とは後に『野々村病院物語』(TBS)などで共演。

いわゆる漫才ブームに付随する形で巻き起こったお笑いブームの潮流に乗り、

若手有望株として大きな注目を集め始めた。

 

 

「唯一天下を取った女性ピン芸人」

 

1981年、ドラマ『野々村病院物語』(TBS)で女優デビュー。

1980年代前半を中心に女優としての仕事もこなしたがやがてお笑いタレントへの比重を移し、

『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)に番組初期から末期まで出演。

「ひょうきんベストテン」では主に薬師丸ひろ子(後に天久美智子、現:あめくみちこに交代)や

欧陽菲菲、島倉千代子、松任谷由実、鈴木聖美などを演じ、担当コーナーである

「ひょうきん絵描き歌」は大ヒット企画になった。

 

1982年にはツーツーレロレロ時代の大森うたえもんと交際し、

マネージャーやビートたけしとも噂になるなど、恋愛関係でも話題を提供した。

田原俊彦の大ファンであることも公言、番組でも何度か共演した。

1985年2月には、女性でありながら丸刈りの坊主頭になり話題となった。

坊主頭にした理由について当時はストレスなどから円形脱毛症に悩んでいたためと報じられたが、

2020年に自らのYouTubeチャンネルで配信した動画では「かつらがかぶりやすくなって

便利だから」と明かしている。

また、この頃は忙しさのあまり番組ごとのヘアメイクにかかる時間すらもったいないとの

理由もあったと語っている。

 

当時同じく太田プロに所属していたたけしがフライデー襲撃事件(1986年)で逮捕され

芸能活動を自粛していた時期は、たけしの代役として『スーパーJOCKEY』

『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)などのテレビ番組で司会を

務めることが多かった。

「オレたちひょうきん族」では女性芸人の中で出演当初からコーナーを持たせてもらえたが、

プレッシャーもなく収録現場はとても刺激的だったという。しかしたけしの代役として

出演をするようになった後、番組によっては山田の代役が喜ばれていない、

そんなアウェイな空気の中でも代役としてやり遂げなければならないことに初めて

仕事にプレッシャーを感じた。

 

また、この頃多くのレギュラーを抱えて仕事を貰えたことに感謝しながらも、

収録に追われて徐々に寝る時間がなくなった。

自宅近くのジャズバーに行くことが癒やしの時間だったが、それでも一時は疲労とストレスで

死の衝動に襲われ、警察の担当部署に電話をかけて悩みを相談したこともあったという。

 

その後、『クイズ!年の差なんて』(フジテレビ)や『MOGITATE!バナナ大使』(TBS)など

出演番組が人気になると同時に、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ)や

『邦子がタッチ』(テレビ朝日)など自身の名前が入った冠番組を持つようになる。

1988年から1995年まで、NHK「好きなタレント調査」において8年連続で第1位となり、

好感度タレントの代名詞ともなった。

全盛期にはテレビ番組のレギュラーを週14本抱え、民放の各キー局に山田専用の

仮眠室」があったと自称している。

1989年公開の映画『魔女の宅急便』(宮崎駿監督)では、松任谷由実作詞・作曲の主題歌を

山田が覆面歌手となって松任谷風に歌うというアイデアも存在した。

 

1991年、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』から誕生した、当時人気の女性デュオ・

Winkのパロディユニット「やまだかつてないWink」名義で歌手として活動。

『“T” intersection』『さよならだけどさよならじゃない』の2曲の作詞を自ら手がけた。

『さよならだけどさよならじゃない』は発表からしばらく卒業式テーマソングの定番となるほどの

大ヒットとなった。

 

1990年には『あっかんベーゼ』(太田出版、文庫版:角川文庫)で小説家としてデビュー。

1991年に出版した2作目の『結婚式』(太田出版、文庫版:幻冬舎文庫)は

発行部数40万部を超えるベストセラーとなった。

その後も、「恋愛」「結婚」「女性」などを主題とした小説を多数出版している。

1994年、リカちゃん人形に関する著書『私のリカちゃん』(集英社)を発表。

さらに同年、タカラから『リカちゃんのおともだちクニちゃん』という

山田を模した人形も発売された。

原宿にはタレントショップの「クーニーズ」を出店したが、火事で全焼。

ゴールデンタイムで冠番組を持った女性ピン芸人は山田以外皆無だという声もあり、

芸能界あるいは放送業界では女性で唯一天下を取ったお笑いタレントと評する向きもある。

 

 

バッシング報道と冠番組の打ち切り

 

1992年、高視聴率だったにも拘らず『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』が

突然打ち切りとなった。

これは表向きではフジテレビ会長・鹿内宏明の指示の下、ゴールデンタイムの

音楽番組の復活を狙ったものと説明されているが、実際は番組レギュラーを頻繁に変更する

スタッフに山田が腹を立て、「一緒に頑張ってきたメンバーを簡単に降板させるのはおかしい」と

意見し、メイン司会者の自らも番組降板を申し出たためだという。

 

1995年には昼の帯番組『山田邦子のしあわせにしてよ』(TBS)がスタート。

1990年代当時、TBSの昼の帯番組は全般的に不調だったが、『しあわせにしてよ』もまた

裏番組である『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ)や

『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)を追い抜くことはできず低視聴率となる。

露出過多が原因となって山田の担当番組の視聴率が低下するとともに、

これまで好感度ナンバーワンだったことの反動としてバッシングが起こる。

NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』(1995年)においては、吉宗の生母・浄円院を演じた。

浄円院は農民の出という説もあるため、庶民的なタレントだった山田が選ばれたが、

視聴者からは「違和感がある」という反応が多かったとされ、

典型的なミスキャストと評する向きもある。

これがまずバッシングの発端となった。

 

その後も、1995年夏から秋にかけて週刊誌のバッシング記事が続き、12月には写真週刊誌

『FOCUS』でテレビ制作関係者との恋愛スキャンダルが報道され

(のち2000年1月に結婚)、芸能リポーターから執拗に追い回されることになった。

この際、芸能リポーターの井上公造からの質問に対して山田が「お前もてないだろう」

「バカじゃないの」と罵倒するシーンがワイドショーで放送された。

 

1996年発表の1995年度NHK「好きなタレント調査」では好感度1位だったものの、

1997年発表の1996年度調査では6位、1997年度は14位と急落した。

1980年代後半からこの時期までは出演番組のほとんどでメイン司会者を務めていたが、

1995年頃から次第にテレビへの露出が減少し、

1997年の『山田邦子のしあわせにしてよ』(TBS)と『邦子がタッチ』(テレビ朝日)の

同時期の打ち切りにより、ついに冠番組もなくなった。

事務所もお手上げ状態で八方塞がりの時期が続いたが、本人は時間に余裕ができたことで

自分を見つめ直す心の余裕ができ、念願だった舞台の仕事や習い事を始めた。

また2006年には、かねてから親交のあった評論家の吉武輝子からの誘いで、

市民団体「戦争への道を許さない女たちの連絡会」に加入する。

 

 

乳がん発覚と闘病

 

2007年4月、『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学 スペシャル』(ABCテレビ)に

ゲスト出演。

同番組内での乳がん自己検診の際、胸に違和感を覚え、

その後乳がんが左右の胸にあることが発覚する。

聖路加国際病院の乳腺外科(ブレストセンター)で2回の手術を経てがんを全て摘出した。

同年6月、『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』レギュラー放送に出演し、

乳がん摘出手術を済ませたことを告白。

この乳がん罹患をきっかけにして、タレント活動の傍ら、がんに関わる啓蒙活動に積極的に

参加するようになり、2008年4月にはがんに対する知識と理解を呼びかけるチャリティー団体

「スター混声合唱団」を鳥越俊太郎らと結成。

2008年から2010年まで厚生労働省「がんに関する普及啓発懇談会」委員を務める。

2009年、NPO法人「リボン運動 がんの薬を普及する会」を結成し、代表理事に就任。

同年3月にはNPO法人「キャンサーリボンズ」のシンボルソング『あなたが大切だから』を

作詞・作曲した。

その一方で、「私は“職業:お笑い”だから。まあ、色んな仕事してるけどね。

もう、本職だからさ。これはやめたくないね」と語るなど、お笑いに対して依然、

強い情熱を持っている。

所属する太田プロダクションのお笑いライブ『月笑(ゲツワラ)』に不定期でゲスト出演して

ピン芸の新ネタを披露したほか、2019年3月まで放送された『日曜バラエティー』

(NHKラジオ第1)の冠コーナー「邦子のなんなんでSHOW」でも新旧のネタを披露していた。

 

2010年10月、2011年春にアジア初上陸するブラジルのファッションブランド

「カルメン・ステファン」のジャパンプロデューサーを担当することが発表された。

東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)を受け、2011年3月に新宿駅前で街頭募金活動を

行ったほか、4月にはラサール石井とともに津波で大きな被害が出た岩手県下閉伊郡山田町を訪問。

11か所の避難所を回り、絵本やおもちゃ、現金などを配った。

避難所では「山田だから山田町に来ました」と自己紹介し、被災者から笑いが起きる。

5月にも山田町にある14か所の避難所を再び訪れ、4月訪問時に被災者からリクエストのあった

電子レンジや扇風機、みかんを持って行った。

その後も支援活動を継続し、2013年10月、「山田町復興ふるさと大使」に任命された。

2017年10月9日、女性お笑い芸人のコンテスト『女芸人No.1決定戦 THE W』に参戦することが

明らかとなり、日本テレビを通じて「やる気925(クニコ)%! ワクワクしてます!」との

コメントを発表した。

しかし、参加費の有無や参加する芸人の名前など、番組の詳細についての説明を

受けていなかったことを理由に出場を辞退し、10月19日に更新したブログでは

「やる気満々だったのに、ただ名前が宣伝に使われただけか。がっかりだ」と

落胆した思いを吐露した。

 

 

太田プロからの独立

 

2019年4月27日、長唄の師匠・杵屋勝之弥とともに歌舞伎座の舞台に立ち、

長唄杵勝会の名取として「杵屋勝之邦」(きねや かつのぶくに)の名を襲名した。

長唄以外の活動については以前同様、山田邦子の名義で行う。

同月29日、自身のブログに「39年所属しておりました太田プロダクションの事務所スタッフには

誰ひとりも観てもらえなかったことがとても残念でした」と記し、名取の襲名披露公演に

太田プロダクション関係者が誰も来訪していなかったことを明かした。

 

同年5月に発売された一部週刊誌では、太田プロダクションとの関係が悪化し、

事務所からの独立を検討していると報じられる。

一時は事務所残留への前向きな姿勢も見せていたが、6月30日に太田プロダクションとの

マネージメント契約を終了した。

フリーランスの期間を経て、2020年1月20日、スポーツ選手のマネジメントを専門とする

アスリート・マーケティングに所属したことを発表した。

デビュー当時に親交のあった桂竹丸の誘いを受け、2019年5月以降、落語芸術協会の寄席に

色物(漫談)として出演するようになる。

2020年8月にはデビュー40年目にして初めて浅草演芸ホールの高座に上がり、

2021年2月から3月にかけてはかつて『日曜バラエティー』で共演していた桂宮治の

真打昇進襲名披露興行にゲスト出演し、口上を述べた。

2022年、上沼恵美子に続く史上2人目の女性審査員として『M-1グランプリ』決勝戦の

審査員を務めた。

 

出展:Wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『山田邦子のプロフィールと最終学歴は?経歴や活動についても!』

というタイトルで、山田邦子さんについてお伝えしました。

 

親しい人や、良く知ってる芸能人の訃報を聞く・・・

耳が遠くなる、目が見えにくくなる、歯が悪くなる、腰が・・・

そうしてこの世に未練が亡くなるというのが人生の”仕組み”の様ですね。

ワインも最後は澱(おり)なのでほどほどにと言うし、

生かされている毎日を楽しく過ごさなければ損というものですね~♪

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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