大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中での愛されキャラは和田義盛でしょう。
しかし、この典型的な坂東武者にもやがて一族滅亡の影が迫ります。
今回は『和田義盛の乱の原因と最後は?巴御前との関係や子孫についても!』
というタイトルで、和田義盛についてお伝えしたいと思います。
どうぞ最後までごゆっくりお読みください。
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和田義盛のプロフィール
和田 義盛 | |
---|---|
時代 | 平安時代末期 – 鎌倉時代前期 |
生誕 | 久安3年(1147年) |
死没 | 建暦3年5月3日(1213年5月24日) |
別名 | 通称:小太郎 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市由比ヶ浜の和田塚 神奈川県三浦市初声町和田の白旗神社 |
官位 | 左衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 侍所別当、十三人の合議制 |
主君 | 源頼朝→頼家→実朝 |
氏族 | 和田氏 |
父母 | 父:杉本義宗、母:大庭景継娘[注釈 1] |
兄弟 | 義盛、義茂、義胤、義長、宗実、 小笠原遠光室 |
妻 | 正室:度会康高娘[注釈 2] 側室:横山時重娘 |
子 | 常盛、義氏、朝比奈義秀、義直、義重、義信、秀盛、杉浦義国 |
和田義盛の乱
和田義盛の乱(和田合戦)
頼朝が没し、二代将軍・源頼家の時代となると、
和田義盛は十三人の合議制の一人に選ばれます。
三代将軍・源実朝とも関係は良好でした。
一方で、北条氏は元久2年(1205)の「牧氏の変」により、
北条時政は伊豆に流されて義時が執権となります。
北条義時は、財政および訴訟を管轄した「政所」の別当にも就任し、
御家人筆頭として幕政を運営していましたが、義盛も北条氏に並ぶ有力御家人でした。
しかし、建暦3年(1213)5月の和田合戦で、義盛は和田一族とともに滅亡します。
和田合戦とは、和田義盛らと、北条義時らの幕府軍が、鎌倉を舞台に全面衝突した合戦で、
鎌倉初の本格的な市街戦としても知られています。
和田合戦の発端は、同年2月15日に発覚した「泉親衡の乱」というもの。
泉親衡なる信濃の武士が北条義時を討とうとした乱ですが、
その参加者には、義盛の子・和田義直と義重、甥の和田胤長もいたという訳です。
義盛は将軍・実朝に、二人の息子と甥の赦免を求めます。
実朝は、これまでの重盛の功績に免じて、息子二人を釈放しますが、
胤長の赦免は拒否したのです。
気が済まなかったのか北条義時は義盛の挑発に出ます。
胤長を後ろ手に縛り、和田一族の面前を歩かせたうえに流罪としました。
和田義盛はこの事に逆上したと伝えられます。
和田と北条の確執は解ける事無く、5月2日義盛は150騎で挙兵します。
これが和田合戦の始まりでありました。
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和田義盛の最期
和田義盛は、御所を包囲して実朝の身柄を拘束し、実朝擁立しての作戦であったが、
従妹の三浦義村の裏切りにより失敗する。
和田の軍勢は御所に攻め込み焼き払うなど奮戦し、激しい戦闘は2日間続いた。
和田勢は援軍を得て一時盛り返すも、大敗。
義盛以下主たる武将はほとんど討ち死にして、和田合戦は終結します。
5月4日に、晒された和田方の首は234。
北条方の戦死者は50名、負傷者は千人に及んだと言われます。
和田義盛の最後により、北条義時は侍所別当と政所別当を兼務することになり、
一気に権力が義時に集中して、執権職が確立しました。
結果からみればこの乱は、義時の権力集中の為のものであったと言えるかも知れませんね。
巴御前との関係や子孫について
和田義盛と巴御前について
巴御前は木曽義仲から落ち延びるように言われますが、
結局、賴朝の「出頭せよ」との言葉に鎌倉に参上します。
頼朝が巴御前の斬首を命じた時、そこに「巴の身柄を預かりたい」
と申し出たのが義盛でした。
頼朝は当初「巴は木曽義仲の仇を討つはずじゃ」と言って
義盛の申し出を却下しておりました。
しかし、義盛は諦めず、一族の頼朝に対する功績をアピール!
自分が巴と一緒になれば巴を無力化出来ると粘り巴御前を妻とします。
義盛の四人子のうち三男の義秀は『巴御前との間に出来た子供説』がありますが、
史実ではないという意見もあります。
和田合戦の後、巴御前は越中石黒へ移って出家。
尼として、91歳の長寿を全うしたと伝えられます。
義盛と巴御前の間が子を成す程の関係であったことに、
何故かほっこりしますね~♪
和田義盛の子孫について
和田義盛には義重、義直、義秀、常盛の子がありましたが、
常盛の子朝盛、そしてその子供である佐久間家盛は承久の乱では幕府側につき、
上総国と尾張国に所領を与えられました。
この時尾張国に土着した末裔が、戦国時代に織田信長に仕えた
佐久間信盛になると言われています。
ネットの反応
敵に靡くのは不本意だったけど、和田義盛様はいい人でした。鎌倉に捕らえられた私はそのまま斬首されるはずだったんだけど、義盛様が妻にしたいといってくれたおかげで私の命は助かった。なのに、その義盛様まで……、和田合戦で一族もろとも……。
— 巴御前 (@tomoe_gozen_bot) June 23, 2022
この前降りなかったけど、電車で通り過ぎた和田塚駅の名前の由来ってやっぱり大河ドラマに出てくる和田義盛が由来だったんだ…和田義盛も私好きなんだけど、殺されちゃうんだよね…和田義盛が殺されるシーン見たくないな…#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/mzN5QNjuFb
— いちご🍓@6/11横アリ (@ikimono_ykhi) June 23, 2022
和田義盛は伊藤忠清殿に憧れて侍所別当になりたがったんだ。でも実際やってみて思ってたイメージと違ったらしくてなぁ……。なんていうか、ホラ……上に立つ者の仕事って責任の大きさに反比例して地味なもんだろ? 「どうしてもって言うから梶原殿に貸しただけ」とか言ってたけど……本当は……ww
— 三浦平九郎判官胤義 (@bot_miura9) June 23, 2022
親戚がややこしいついでに言うと、従兄弟にあたるのは母方の義明祖父上側に源太義平様始め三浦義村、胤義、和田義盛他多数。叔父の小山田有重の子に稲毛重成、榛谷重朝。千葉常胤の子に胤正、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通など。ちなみに稲毛重成は北条時政の娘を妻にしており私とは義兄弟にもなる。
— 畠山重忠 (@Shigetada_bot) June 23, 2022
餅を巡って巴御前に叱られる和田義盛。ええカッコしいの割にすぐバレる嘘をつく単純な性格。木曽義仲を失った失意の巴御前を(柔和き)活き返らせた、憎めないムードメーカー。
いい味出してる。
が。和田義盛もまた後には(単純な性格ゆえ)北条に挑発されて滅ぶ予定と思うと悲しい。
#鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/4nYSV4rPwX— ヘルベルト•フォン•スダヤン (@suda_yan) June 22, 2022
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まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は『和田義盛の乱の原因と最後は?巴御前との関係や子孫についても!』
というタイトルで、和田義盛についてお伝えしました。
あれほど豪快な、義盛も・・・と思うと
少し落ち込んでしまいます。
「鎌倉殿の13人」一体何人が幸せな人生をおくれるのか?
激動の展開から目が離せませんね~。
今回も最後までお読みいただき有難うございました。