谷村新司さんの若い頃とプロフィールは?学歴や経歴についても!

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10月17日の「徹子の部屋」で、谷村新司さんを追悼。

数々の名曲をこの世に残しご逝去された故人を偲び、

谷村新司さんについて改めてふりかえってみました。

 

今回は、『谷村新司さんの若い頃とプロフィールは?学歴や経歴についても!』

と言うタイトルで、谷村新司さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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谷村新司さんのプロフィール

 

徹子の部屋|テレビ朝日

出展:www.tv-asahi.co.jp

 

谷村 新司

基本情報
出生名 谷村新司
別名 チンペイ
生誕 1948年12月11日
日本の旗 日本大阪府南河内郡長野町(現・河内長野市
出身地 日本の旗 日本・大阪府大阪市住之江区(当時は住吉区
死没 2023年10月8日(74歳没)
学歴 桃山学院大学中退
ジャンル 歌謡曲
フォーク
ニューアダルトミュージック
職業 音楽家
上海音楽学院常任教授
担当楽器 ボーカル
ギター
活動期間 1965年 – 2023年
事務所 ダオ
公式サイト タニコム

出展:Wikipedia

 

 

 

 

谷村新司さんの若い頃

 

70代のアリス「これまでで一番いい」 谷村新司が語る:朝日新聞 ...

出展:www.asahi.com

 

初々しさに溢れる谷村さん~♪

ここから多くの素晴らしい詩や曲が生まれていったのですね。

 

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谷村新司さんの経歴

 

歌手・谷村新司さん死去 74歳|au Webポータル芸能ニュース

出展:article.auone.jp

 

 

アリス結成前

 

両親が第二次世界大戦の最中に大阪府南河内郡長野町(現・河内長野市)の長野温泉で

親族が営んでいた旅館に疎開していたことから、大戦後の1948年に同町内で出生。

3歳まで生活した後に、大阪市内へ転居した。

大阪市立桑津小学校、大阪市立東住吉中学校、大阪府立大和川高等学校

(現:大阪府教育センター附属高等学校)卒業。

桃山学院大学中退。

少年時代は肥満体型で、「ブタ」と渾名され傷つく。

母親は長唄の三味線を、姉は6歳から地唄舞をずっと続けていた。

谷村自身は特に音楽に興味があった訳ではなかったが、『渡り鳥シリーズ』でギターを弾く

小林旭の姿を見て一念発起。

「女にモテたい一心で」(本人談)ギターを練習し始め、やがてバンド活動も開始した。

 

1965年、高校在学中に山本峯幸、島津ちず子とピーター・ポール&マリースタイルの

フォーク・グループ「ロック・キャンディーズ」を結成。

グループ名は「氷砂糖」の意。

大阪と神戸で絶大な人気を誇り、神戸のアマチュア・バンド・サークル「ポート・ジュビリー」の

看板グループであった。

1968年9月、シングル「どこかに幸せが」で東芝レコードよりデビュー。

1971年には唯一のアルバム『讃美歌』を発表している。

 

1970年、大阪万博の会場で、後にアリスの所属事務所「ヤングジャパン」社長となる

細川健と知り合う。

細川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで「ロック・キャンディーズ」や

「ザ・フォーク・クルセダーズ」らと共に参加していたソウル・バンド「ブラウン・ライス」の

ドラマー矢沢透と知り合い意気投合。

帰国したら一緒にグループを組もうと約束する。

このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構想ができつつあった。

このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機会があり、

ジミー・ペイジの独特のギター・プレイに圧倒されたという。

同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機会にも恵まれ、

「当時彼女の生演奏に触れることのできた数少ない日本人として幸運」と谷村本人が語っている。

帰国した谷村は、アマチュア・ロック・バンド「フーリッシュ・ブラザーズ・フット」の

ボーカル堀内孝雄をアリスに勧誘。

堀内は「ポート・ジュビリー」で、既に谷村とは知り合いだった。

 

 

アリス結成~活動休止

 

1971年12月25日、谷村新司、堀内孝雄の2名で「アリス」結成。

桑名正博の実家の蔵で練習を重ねる。

1972年3月5日、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。

同年5月5日、矢沢透が正式に合流し、現在のアリスとなった。

2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強い演奏については、

リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。

デビュー当初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。

所属事務所ヤングジャパンは、何とか打開策を見出そうと、

ソウルミュージックの帝王ジェームス・ブラウンを初来日させるが、

当時の日本ではマイナーなアーティストだったこともあって、来日公演は不入り。

逆の意味で“伝説のライブ”となり、ヤングジャパンは、莫大な借金を背負った。

この際、3000人を収容できる大阪のフェスティバルホールに観客が約200人しか集まらなかった。

ライブを盛り上げるため観客席でスタッフらと共に歓声を上げていた谷村は、

ジェームス・ブラウンのライブでは恒例のマントショーの最中、舞台袖で舞台監督に

「もうだめだ、やりたくない」と言っているジェームス・ブラウンの姿が見えたという。

借金返済のためグアムへのクルージング・ツアーを企画するが、

これもまた成功には至らず借金をこじらせる結果となる。

挙句は帰国途中に谷村が当事者となったコレラ騒動までもが起こった。

(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)谷村の著書での回想によれば

当時人気絶頂だったガロが同行したがスケジュールの都合で途中で帰国。

困った谷村達は懸命にアリスで盛り上げようとした。

 

アリスは、地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が残っている)と

1975年の「今はもうだれも」のヒットを契機に、「冬の稲妻」、「涙の誓い」、

「ジョニーの子守唄」、「チャンピオン」、「狂った果実」等のヒット曲を連発する。

1978年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、

一時代を築いた。

アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。コンサート活動はなかった

(シャンソン歌手アダモとのジョイント・コンサートを除く)ものの、

1975年のアルバム『蜩(ひぐらし)』を皮切りに、ソロ名義でのアルバムやシングル制作、

他の歌手への楽曲提供(山口百恵の「いい日旅立ち」など)を精力的に行う。

アリスとは異なる音楽世界は、1979年の「陽はまた昇る」を経て、

1980年の「昴 -すばる-」で一定の完成をみる。

1981年にはシングル「群青」が東宝映画『連合艦隊』の主題歌となる。

 

1981年8月23日、北京・工人体育館にて日中共同コンサート「ハンド・イン・ハンド北京」開催。

中国におけるロック・ポップス系コンサートとしては、前年10月に工人文化宮で開催された

「第一回中日友好音楽祭」に出演したゴダイゴに次ぐものだが、

単独公演としてはアリスが初めてであった。

この公演が李力や王勇ら多くの若手ミュージシャンに影響を与え、

中国にポップスが根付く礎となった。

またソロになった谷村が、本格的にアジアに目を向けた活動を始めるきっかけにもなった。

同年11月、アリス活動停止。

 

 

ソロ活動期

 

1982年、シングル「スーパースター-MY SUPERSTAR-」、アルバム『JADE-翡翠-』を

リリースして、本格的にソロ活動をスタート。

1983年の『EMBLEM』、1984年の『抱擁』『刺-とげ-』など、1980年代は年に1〜2枚の

ハイペースでアルバムを発表。

いずれもアルバム毎に明確なコンセプトをもった意欲作である。

またその間1983年の「22歳」や、翌1984年も小川知子とのデュエット曲

「忘れていいの-愛の幕切れ-」のシングル曲をそれぞれヒットさせている。

 

毎年のコンサート・ツアーとは別に、さだまさし、北島三郎、郷ひろみらと

ジョイント・コンサートも実施。

1983年からはニュー・ミュージック系アーティストでは初めてのディナーショーもスタート。

また親友である チョー・ヨンピル、アラン・タムと共に、アジアのミュージシャンを集めた

イベント「PAX MUSICA」をスタート。

1984年の後楽園球場での公演を皮切りに、年に1回アジア各地で開催され、現在も続いている。

ちなみに1985年、映画『サンダーアーム/龍兄虎弟』撮影中に瀕死の重傷を負った

ジャッキー・チェンが、復活した姿を初めて聴衆の前に現したのも、

香港コロシアムでのPAX MUSICA公演のステージ上であった。

 

1986年、完成したばかりの東京・青山劇場で1ヶ月のロングラン・リサイタル

『CORAZON』を開催。

この青山劇場公演は年末の恒例行事となり、2002年の『LA STRADA VI -宝石心-』まで続いた。

1987年、アリスとしての活動も再開。

シングル「BURAI」、アルバム『ALICE X』をリリースし健在をアピール。

ただし、この時はコンサート・ツアーは行わず、数本のテレビ番組出演をするにとどまった。

その後アリスは再び長い活動休止期間に入る。

1988年、ロンドン交響楽団と共演した大作アルバム『獅子と薔薇』を発表。

1989年の『輪舞-ロンド-』(国立パリ・オペラ・オーケストラと共演)、

1990年の『Price of Love』(ウィーン交響楽団プロジェクトと共演)と合わせ、

「ヨーロッパ三部作」を完成させる。

1995年のアルバム『I・T・A・N』ではプロデューサーにフィル・ラモーンと

ジャック・エリオットを起用するなど、80年代後半から90年代前半にかけては

欧米のミュージシャン、プロデューサーとの仕事が多かった。

 

1989年12月、父・新蔵が死去。

『第40回NHK紅白歌合戦』で「陽はまた昇る」を追悼曲として歌唱。

1992年11月16日、加山雄三と連名でシングル「サライ」を発表。

日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のテーマソングとして使用され、

現在でも番組を代表する曲として歌い継がれている。

1996年、世界初の商業用DVDソフトであるライブDVD『シンジ ラ ムニタ』を発表。

このことは、2008年9月3日に放送されたテレビ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』の

水曜コーナー『クイズ!メイクダウト』でも取り上げられた。

1997年、フジテレビ系列「ボキャブラ天国」シリーズにてタモリが司会の座を退いたことから、

谷村がヒロミと共に、新MCに就任。

「新ボキャブラ天国」、「黄金ボキャブラ天国」、「家族そろってボキャブラ天国」の

3シリーズ・1年半にわたり活動。

ほかにも「マガ不思議」や「コレって変ですか〜!?」など

当時バラエティ番組の司会として活躍していた。

 

 

2000年代以降

 

2000年、インディーズ・レーベル「mama’s & papa’s」を立ち上げた。

リリースしたMaxiシングルは「ハーヴェスト」1曲のみであった。

同年末の『第51回NHK紅白歌合戦』でアリスの活動を再開。

2001年、1月17日の神戸国際会館でのコンサートを皮切りに、

14年ぶりのニュー・アルバム『ALICE 0001』のリリース、全国ツアーと活躍。

 

2002年、アルバム『半空』を発表。

坂崎幸之助や鈴木康博といった旧友に混じって、元MR. BIGのギタリスト

ポール・ギルバートが参加した。

2004年、中国・上海音楽学院で教授を務めている。

同年、中国の歌手毛寧のアルバム『我』をプロデュース。

2005年、日本国際博覧会「愛・地球博」NHKテーマソング「ココロツタエ」

(歌=夏川りみ・作詞=谷村新司・作曲=谷村新司)。

2005年、『第56回NHK紅白歌合戦』に、アリスとして2度目の出場を果たす。

2006年、avex ioに移籍、6年ぶりのMaxiシングル「風の暦」をリリース。

2007年4月18日、『半空』以来5年ぶりのオリジナル・アルバム『オリオン13』を発売。

NHKの番組『にっぽん 心の仏像』に出演した。

番組のテーマ曲は本人の歌『カノン』。

『オリオン13』に収録されてある「ココロツタエ」には作曲・編曲共「千住明」による

ソロバージョン。

2007年7月8日、平城遷都1300年記念祭テーマソング「ムジカ」(歌・作詞・作曲=谷村新司)

2007年9月19日、「夢人〜ユメジン〜」(avex ioから2枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年3月19日、「今ありて」(avex ioから3枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年6月4日、「ツバメ」(avex ioから4枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年8月27日、「ロード・ソング」(avex ioから5枚目)のMaxiシングルをリリース。

2008年12月10日、「十三夜/マカリイ」(avex ioから6枚目)のMaxiシングルをリリース。

「マカリイ」は、「昴」の曲に対するアンサーソング。

2009年2月4日、「桜は桜/夢になりたい」(avex ioから7枚目)のMaxiシングルをリリース。

2012年2月18日、「風の子守唄〜あしたの君へ〜」

(avex ioから8枚目)のMaxiシングルをリリース。

前の作品「メシアふたたび」(阪神・淡路大震災)に次ぐ「東日本大震災」で

2作品目となる支援団体への印税全額寄贈物。

2012年7月18日、「はじまりの物語/伴奏」(avex ioから9枚目)のMaxiシングルをリリース。

 

2023年3月、急性腸炎のため入院。

6月よりアリスの全国ツアーを控えていたが、ドクターストップにより休止。

年内いっぱいは治療に専念し、定例のクリスマスディナーショーおよびピアノリサイタル

「歌暦」も中止とした。

同年10月8日、死去。

74歳没。

葬儀は15日に近親者のみで営まれ、死去は16日に公表された。

戒名は「天昴院音薫法樂日新居士」(てんぼういんおんくんほうらくにっしんこじ)。

 

出展 : wikipedia

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

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まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『谷村新司さんの若い頃とプロフィールは?学歴や経歴についても!』

というタイトルで、谷村新司さんについてお伝えしました。

 

『昴』や『群青』を聴くたびに、

日本語の美しさや、詩と曲の出会いの果てしない可能性に、

いつも感動して鳥肌が立ちます。

谷村新司さんのご冥福をお祈りいたします。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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