後鳥羽上皇のプロフィールと最期は?承久の乱の結末についても!

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11月2日の「歴史探偵」に後鳥羽上皇が登場されます!

後鳥羽上皇ってどんな人だったのか改めて調べてみました。

今回は、『後鳥羽上皇のプロフィールと最期は?承久の乱の結末についても!』

というタイトルで、後鳥羽上皇についてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

後鳥羽上皇のニュース

 

歴史探偵「後鳥羽上皇と承久の乱」

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条義時の前に立ちはだかる後鳥羽上皇。

あらゆる分野で頂点を極めた最強の上皇の秘密を徹底調査。

承久の乱に至る波乱の生涯に迫ります

 

 

番組内容

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条義時の前に立ちはだかる後鳥羽上皇。

武士が台頭する時代に「正統な君主」であることを求め続けた。

弓術や蹴鞠(けまり)などあらゆる分野で頂点を極めた「最強」の上皇の実態を徹底調査!

なぜ後鳥羽上皇は頂点を極めようとしたのか?

浮かび上がったのは、生涯抱え続けたコンプレックス。

朝廷と幕府が全面対決した前代未聞の事件「承久の乱」を起こした後鳥羽上皇の

波乱に満ちた生涯に迫る!

 

引用:「歴史探偵」の番組案内から

 

 

後鳥羽上皇のプロフィール

 

後鳥羽天皇

後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)

即位礼 1184年9月4日(元暦元年7月28日)
大嘗祭 1184年12月22日(元暦元年11月18日)
元号 寿永
元暦
文治
建久
時代 鎌倉時代
摂政 近衛基通→松殿師家→近衛基通
→九条兼実
関白 九条兼実→近衛基通
先代 安徳天皇
次代 土御門天皇

誕生 1180年8月6日(治承4年7月14日)午時
五条町亭
崩御 1239年3月28日(延応元年2月22日)
隠岐
大喪儀 1239年6月19日(延応元年5月16日)
陵所 大原陵、隠岐海士町陵(火葬塚)
漢風諡号 顕徳院
1239年5月(延応元年)諡号勅定
追号 後鳥羽院
(後鳥羽天皇)
1242年8月5日(仁治3年7月8日)追号勅定
諱 尊成
別称 隠岐院
元服 1190年2月9日(建久元年1月3日)
父親 高倉天皇
母親 坊門殖子(七条院)
中宮 九条任子(宜秋門院)
子女 下記参照
皇居 平安宮
閑院
大炊御門殿

出展:Wikipedia

 

後鳥羽上皇の最期と承久の乱の結末

 

出展:Twitter

 

鎌倉幕府3代将軍源実朝は歌人でもあり、京の都志向でした。

この事は後鳥羽上皇にとって好都合であり、実朝の鎌倉幕府を抱き込もうとしていた様です。

しかし、鎌倉幕府の御家人達からするとこれは危険な兆候でした。

 

建保7年(1219年)1月27日、右大臣就任拝賀式典のため

鶴岡八幡宮を訪れていた実朝は甥の公暁に暗殺されます。

その後、源氏将軍家が3代で滅びると、北条執権家体制の鎌倉幕府が立ち上がります。

 

鎌倉幕府内に実朝という手駒を失った上皇は朝廷独自の武士団「西国の武士」を組織して

軍事力により鎌倉幕府を屈服させようとします。

 

承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇に依る「義時討伐令」が出されて、

「承久の乱」が勃発します。

 

上皇に依る義時討伐令は幕府を動揺させ、義時は人生最大のピンチになりますが、

北条政子の命演説で御家人たちは一丸となって朝廷に徹底抗戦する事になります。

 

こうして幕を開けた「承久の乱」も僅か1ヶ月で幕府の勝利で終結し、

上皇は隠岐に流され、その地にて崩御されます。

 

ネットの反応

 



 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『後鳥羽上皇のプロフィールと最期は?承久の乱の結末についても!』

というタイトルで、後鳥羽上皇についてお伝えしました。

 

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もあと数話となりました~♪

鎌倉時代はこれ程ドロドロドラマだったのか・・と

時折800年前の世界に彷徨ったりしています。

今回の「歴史探偵」は見逃せませんね~。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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