渡部絵美の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!

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6月12日の「徹子の部屋」に渡部絵美さんが出演!

渡部絵美さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『渡部絵美の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!』

と言うタイトルで、渡部絵美さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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渡部絵美のプロフィール

 

出展:X

 

渡部 絵美
Emi WATANABE
フィギュアスケート選手
生誕 1959年8月27日(64歳)
東京都
身長 155 cm
選手情報
引退 1980年6月23日
獲得メダル
フィギュアスケート
世界選手権
1979 ウィーン 女子シングル

出展:Wikipedia

最終学歴:専修大学 卒業

 

 

 

 

渡部絵美の現在

 

出展:X

 

メダリストの風格と落ち着き!素敵ですね~。

 

 

渡部絵美の若い頃

 

渡部絵美はハーフで両親(父母)兄弟・再婚相手や元夫・子供は ...

出展:Nontitle

 

爽やかな笑顔が巷に満ち溢れていましたね~♪

 

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渡部絵美の経歴

 

渡部絵美 20年9月に再婚していた お相手は6歳下会社員 「何か ...

出展:スポニチ

 

 

アマチュア時代

 

10歳年上の姉の影響で2歳でスケートを始め、8歳から本格的にスケートを習う。

10歳のときに稲田悦子コーチの提案でアメリカ合衆国ミネアポリスにスケート留学をする。

元世界チャンピオンでガルミッシュパルテンキルヘンオリンピック銅メダリストの

フェリックス・カスパーの指導を受けて才能をのばす。

1972年、12歳で競技会にデビュー。

初出場の全日本フィギュアスケートジュニア選手権、全日本フィギュアスケート選手権で優勝。

その後、全日本フィギュアスケート選手権では引退するまで8連覇を果たした。

この連覇記録は女子では伊藤みどりと並び現在も破られていない。

1976年、インスブルックオリンピックに16歳の若さで出場し、13位に入る。

1977年、東京で開催された世界フィギュアスケート選手権では12位と不本意な成績に終わる。

しかし、彼女の基礎技術の正確さとジャンプの質の良さが国際スケート連盟の役員達の目にとまり、

この時期から暫くの間ISUのマニュアルに

「2回転アクセルは、渡部絵美のように跳ぶのが理想的である」と表記されるようになったという

逸話がある。

高校卒業後、引退を考えたが、カルロ・ファッシの誘いでアメリカに再留学する。

1979年の世界フィギュアスケート選手権では、日本女子のフィギュアスケート選手として

史上初となる銅メダルを獲得。

メダルが確実視された翌1980年のレークプラシッドオリンピックでは、

ショートプログラムで得意のダブルアクセルーダブルループジャンプコンビネーションに失敗、

フリーでは2種類の3回転ジャンプを決めほぼノーミスの演技だったが福原美和(5位)以来の

6位入賞に留まった。

1980年の世界選手権でもフリーでトウループ、サルコウの2種類の3回転ジャンプを決め4位となり、

3か月後の1980年6月23日、フィギュアスケート界からの引退を発表する。

 

 

引退後

 

引退後、ヤマハ音楽振興会に所属してタレント活動を開始。

2001年、第19回参議院議員通常選挙比例代表に自由連合から立候補し落選。

個人名得票6501(自由連合候補者名簿内47名中14位)。

2006年トリノオリンピックの日本代表選考に関して様々なメディアで浅田真央が代表になれると

主張したが、これは渡部の個人的意見であった。

トリノオリンピック代表の選考は2004年の時点で定められていたオリンピックポイント制

(出場した大会の順位毎にポイントを与え、総得点の多い選手を代表とする)によるもので、

年齢制限に関しても特例を認めないことが事前の国際会議で決まっていた。

そのため、たとえアメリカに移籍しても浅田は出場権を得られなかった。

引退後は、アイスショー等で佐野稔と一時期ペアを組んだり、

ジュニアの育成に力を入れていた時期もあったが、1990年代ころからタレント活動、講演も行い、

活動の中心はスケート教室で東京を中心に子供たちを教えている。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

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