細野晴臣のプロフィールと出身大学は?経歴や著書についても!

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1月30日の「スイッチインタビュー」に細野晴臣さんが出演!

細野晴臣さんってどんな人なのか気になり調べてみました。

今回は、『細野晴臣のプロフィールと出身大学は?経歴や著書についても!』

と言うタイトルで、細野晴臣さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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細野晴臣のニュース

 

Eテレ「スイッチインタビュー」細野晴臣x小林信彦編(2023年1月 ...

 

スイッチインタビュー「細野晴臣×小林信彦」EP2

 

はっぴいえんど、YMOで知られる細野晴臣×作家・小林信彦。

実はお笑い好きという細野が語る喜劇への思い、自らのルーツ。

貴重な演奏シーンやコント映像も #大滝詠一

番組内容

伝説のバンド、はっぴいえんど。

斬新なサウンドで世界を席巻したYMO、イエローマジックオーケストラ。

その中心にいたのが、音楽家の細野晴臣だ。

実はお笑いが大好きという細野が会いたいと願ったのが…著作「日本の喜劇人」で

知られる作家・小林信彦。

日本のコメディ史の生き字引だ。

敬愛する小林を前に、細野が語る喜劇への思い、自らのルーツ。

名曲の数々、貴重なコント映像も! #大滝詠一 ♯YMO ♯映画音楽

 

出演者

【出演】音楽家…細野晴臣,作家…小林信彦,

【語り】満島ひかり,岡田将生

 

引用:「スイッチインタビュー」の番組案内から

 


 

細野晴臣のプロフィール

 

細野晴臣 | NHK人物録 | NHKアーカイブス

出展:www2.nhk.or.jp

 

細野 晴臣
Haruomi Hosono
Hosono Haruomi from "No Smoking" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2019 (49013189233).jpg

基本情報
別名
  • ハリー
  • ハリー細野
  • 宇野主水
  • 西原朱夏
  • チャーハン細野
生誕 1947年7月9日(75歳)
出身地 日本の旗 日本 東京都港区
学歴 立教大学社会学部観光学科
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1969年 –
レーベル
事務所 ミディアム
共同作業者
公式サイト 公式ウェブサイト
著名使用楽器

出展:Wikipedia

 

出身大学:立教大学

 

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細野晴臣の経歴

 

デビュー50周年の細野晴臣、世界を旅して何を見たのか 音楽遠足 ...

出展:jbpress.ismedia.jp

 

 

経歴

 

生い立ち

1947年(昭和22年)、東京都港区生まれ。

父方の祖父は鉄道官僚で、タイタニック号処女航海唯一の日本人乗客であった細野正文。

母方の祖父である中谷孝男はピアノ調律師、叔母が外資系の映画会社勤務という環境から、

幼い頃からポピュラー音楽に親しんだ。

港区立白金小学校から越境で港区立青山中学校入学。

バンカラな校風の青山中学時代にロックに興味を持ち、

15歳あたりからギターを手に友人とバンドを組む。

漫画家を志したこともあるが、立教高校(現:立教新座高校)・立教大学の同級生だった

西岸良平の才能に感服し、漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意する。

高校時代からフォークの洗礼を受け、ボーカルにも挑戦し始める。

この頃、ボブ・ディランに大きな影響を受けた。

 

ロックバンドの結成

立教大学在学中にベースをはじめ、数多くのバンドを経た1969年、

エイプリル・フールのベーシストとしてメジャー・デビュー。

その後、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを結成。

細野本人は当初、日本語でロックを歌うことに反対していたが、

結果として日本語ロックの礎を築く。

1973年のはっぴいえんど解散後、ソロ活動と並行して鈴木茂、林立夫、松任谷正隆と

キャラメル・ママ(のちにティン・パン・アレーと改名)を結成。

演奏・プロデュースチームとして多数のアーティストの楽曲に参加、

荒井由実などのプロデュースも行う。

 

自身のソロ・アルバムでは、1stアルバム『HOSONO HOUSE』(1973年)は、

当時埼玉県狭山市のアメリカ村にあった自宅で録音を行い、

その後の『トロピカル・ダンディー』(1975年)、『泰安洋行』(1976年)、

『はらいそ』(1978年)と続く「トロピカル三部作」では南国・楽園志向にアプローチし、

この三部作でのニューオーリンズや沖縄、ハワイ、中国などの音楽をごった煮にしたサウンドは

海外の好事家からも注目されるようになる

(この作品に加えて、プロデュース作品である西岡恭蔵の『ろっかばいまいべいびい』がある。

名義上はプロデュースだが、実質は共作である)。

漫画家の諸星大二郎のファンであり、彼の漫画のタイトルから曲名をつけたこともある。

 

『イエロー・マジック・オーケストラ』結成

シンセサイザー・コンピュータを用いた音楽やディスコへの興味が高まっていった1978年、

元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏、当時スタジオ・ミュージシャンでもあった

坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ (YMO) を結成。

当初は細野主体の企画もののバンドと捉えられていたが、

1980年にはその活動がブームを巻き起こす。

YMOの成功をきっかけにメディアにも露出するようになり、アイドル・歌謡曲界への

多数の楽曲提供、新人発掘のためのレーベル「¥EN」の高橋との共同による立ち上げなど

個人としても精力的に活動を行う。

また、ヴィデオ・ゲーム「ゼビウス」の音源をダンス・ミュージックにアレンジした

『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュース。

ゲーム・ミュージックが音楽ジャンルとして確立するきっかけを作った。

 

『イエロー・マジック・オーケストラ』散開後

1983年のYMO散開(解散)後は、テイチクに移籍し、

「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。

Non Standardレーベルからはピチカート・ファイヴやWorld Standardを輩出。

また、自身の代表作として映画『銀河鉄道の夜』のサウンド・トラックを手掛ける。

Monadoレーベルからは実験的な作品を中心にいわゆる「観光音楽」と呼ばれる作品を発表。

代表作として映画『パラダイスビュー』のサウンド・トラックを手掛ける。

 

この時期は旧知である松本隆の依頼で松田聖子への楽曲提供を行うなど

他者への楽曲提供も盛んに行っている。

一方で聖子と激しいライバル関係にあった中森明菜に対しても楽曲提供を行っており、

同じく松本と旧知である松任谷由実が明菜に対し楽曲提供を行っていないのとは対照的である。

 

その後、1989年にEPIC/SONY RECORDSに移籍し、アルバム『omni Sight Seeing』を発表。

また、映画『紫式部 源氏物語』のサウンドトラックを手掛ける。

その後、アルバム『メディスン・コンピレーション』を発表。

その後もプロデューサーや作曲家としての活動や映画音楽の提供(『メゾン・ド・ヒミコ』他)

などをこなしながらも、アルバム発表や多くの他アーティストとのユニット結成など

自己の音楽活動も枚挙に暇が無い。

 

1990年代以降

YMO時代からの多忙に加えて、日本のバブル崩壊以前の消費社会に幻滅し、

1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージックに

深くアプローチし、大量消費されない音楽を模索した。

自身のレーベル「daisyworld discs」を1996年に創設、2002年よりYMO時代の盟友、

高橋幸宏とスケッチ・ショウ (SKETCH SHOW) を結成し

フォーキーなエレクトロニカサウンドに取り組む。

また2005年にはHISにてシングルをリリース、翌年この名義にて

忌野清志郎のライブに参加するなどしている。

 

SKETCH SHOWは坂本龍一ともコラボレートしており、ライヴやコンピレーション・アルバムでは

3人でヒューマン・オーディオ・スポンジ (HAS) として活動も行う。

2007年にはHASとしてのライブ活動のほか、YMOとしても「RYDEEN 79/07」を発表、

さらにはHASYMOとしても「RESCUE」を発表するなど、活発な活動を行っている。

 

YMO 2008年ライブ

その一方で、2005年9月に狭山稲荷山公園で行われた

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバルでは久々にボーカルをとって

『HOSONO HOUSE』の曲を披露。

以降、東京シャイネスハリー・ホソノ・クインテットなどのユニットを結成し、

カントリー&ウェスタンスタイルのライブ活動を行う。

これらの活動は2007年9月に発売されたアルバム「FLYING SAUCER 1947」として結実する。

また、同年4月に坂本龍一の立ち上げたレーベル「commmons」から

トリビュート・アルバムが発売され、同年7月にはトリビュート・ライブが

日比谷野外音楽堂で催された。

2008年にトリビュート・アルバムの続編も発表されている。

2008年3月、平成19年度芸術選奨の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。

2011年、『くるり×細野晴臣 東北ツアー』を開催。

2013年から4年間、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部の客員教授を務める。

2015年、『キネマ旬報』に連載したコラム「映画を聴きましょう」で、

第42回キネマ旬報読者賞を受賞。2020年度朝日賞受賞。

 

 

著書

レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす(1979年8月、CBS・ソニー出版)

地平線の階段(1979年11月、八曜社)

レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす(1984年7月、徳間書店)

花に水(1984年9月、冬樹社) – カセットブック

技術の秘儀(1984年12月、朝日出版社)※吉成真由美との共著

地平線の階段(1985年5月、徳間書店)

観光(1985年6月、角川書店)※中沢新一との共著

ネコの日(198年6月、八曜社)

音楽少年漂流記(1988年1月、新潮社)

季刊音楽誌「H2」エイチ・ツー創刊0号(1991年9月、筑摩書房)※責任編集

The endless talking 細野晴臣インタビュー集(1992年3月、筑摩書房) ※編・北中正和

テクノドン(1993年7月、小学館)※編著・後藤繁雄

アンビエント・ドライヴァー(2006年9月、マーブルトロン)

対談の本 ロックンロールから枝豆まで(2007年3月、マーブルトロン)

高野寛、ムッシュかまやつ、大瀧詠一、コシミハル、テイ・トウワ、鮎川誠+シーナ、

忌野清志郎、ジム・ジャームッシュ

分福茶釜(2008年6月、平凡社)※聞き手・鈴木惣一朗

神楽感覚(2008年10月、作品社)※鎌田東二との共著

HOSONO百景 いつか夢に見た音の旅(2014年3月、河出書房新社)※編・中矢俊一郎

とまっていた時計がまたうごきはじめた(聞き手・鈴木惣一郎)平凡社、2014.11

地平線の相談(2015年3月、文藝春秋)※星野源との共著

映画を聴きましょう(2017年11月7日、キネマ旬報社)

 

出展:Wikipedia

 


 

ネットの反応

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、『細野晴臣のプロフィールと出身大学は?経歴や著書についても!』

と言うタイトルで、細野晴臣さんについてお伝えしました。

 

細野晴臣さんと漫画家の西岸良平が高校・大学の同級生で、

細野さんは西岸良平の才能に感服し、

漫画家を諦め音楽の道を進むことを決意した・・・

なんてエピソードは初めて聞きました~♪

でも、音楽で才能が花開いた細野さんの決断は

間違ってなかったのでしょうね~。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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