小林幸子の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!

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6月10日の「徹子の部屋」に小林幸子さんが出演!

小林幸子さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、『小林幸子の現在と若い頃は?プロフィールや学歴と経歴についても!』

と言うタイトルで、小林幸子さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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小林幸子のプロフィール

 

テレ朝POST » 小林幸子、熟年婚から13年。夫とは生まれる前から ...

出展:テレ朝POST – テレビ朝日

 

小林 幸子
基本情報
出生名 小林 幸子
別名 林 幸子(本名)
小林 さち子
ビクター時代の芸名
岡 真由美
テイチク時代の芸名)
バーチャルグランドマザー小林幸子(バーチャルYouTuberとしての芸名)
ラスボス
サチサック
生誕 1953年12月5日(70歳)
出身地 日本の旗 日本新潟県新潟市(現:新潟市中央区
ジャンル 演歌
歌謡曲
職業 歌手
女優
担当楽器
活動期間 1963年 – 現在
レーベル 日本コロムビア
ビクターエンタテインメント
テイチク
ワーナー・パイオニア
→日本コロムビア
→サチコプレミアレコード
(自社レーベル)
事務所 幸子プロモーション
公式サイト 幸子プロモーション公式ウェブサイト
小林幸子はYouTuBBA!!
YouTube
チャンネル
活動期間 2018年04月 –
登録者数 18.2万人
総再生回数 2938万2316回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2024年2月8日時点。

出展:Wikipedia

最終学歴:東京都 麹町学園女子高等学校

 

 

 

 

小林幸子の現在

 

徹子の部屋|テレビ朝日

出展:徹子の部屋|テレビ朝日

 

変わりなく、良いお歳のとられ方をされている様ですね~♪

 

 

小林幸子の若い頃

 

小林幸子、不遇の3年でネット世代と拓いた新境地を語る(週刊 ...

出展:LINE NEWS

 

あどけなさ、可愛らしさに絶句します!

 

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小林幸子の経歴

 

Sachikoってもしかして…そう、あの幸子です。「VOCALOID4 ...

出展:Vocaloid

 

 

新潟県新潟市(現在の新潟市中央区)出身。

1963年(昭和38年)、9歳(小学4年生)の時にTBSテレビ『歌まね読本』にて

グランドチャンピオンとなり、審査委員長の古賀政男にスカウトを受ける。

翌1964年(昭和39年)には新潟市内で肉屋を営んでいた家族とともに上京して

古賀事務所に所属し、古賀作曲の『ウソツキ鴎』でデビュー。

デビュー曲がレコード販売20万枚のヒット曲となる。

 

1966年(昭和41年)7月30日から1968年(昭和43年)1月27日まで日本テレビ『九ちゃん!』

に「チビッコトリオ」としてレギュラー出演。

1968年(昭和43年)にはNET(現:テレビ朝日)で放映された青春ドラマ『青い太陽』に主演、

背泳ぎでオリンピック出場を目指す女学生を演じ、

同作の主題歌(エンディング曲)と挿入歌も歌唱。

“第2の美空ひばり”と騒がれたが、歌手業ではヒット曲が続かず、またお手本としていたはずの

美空ひばりの母親から、あまりにもひばりを模倣しているとの嫌悪感から敬遠され(後に和解)

仕事が激減していき、10年の長い不遇が続く。

 

低迷期には10年間にわたって一人で全国各地を行脚し、地方興行の中で人に言えぬ苦労を経験した。

昼間は各地の興行を行いながら地元のレコード店やラジオ局、有線放送局などへ一人で

キャンペーン廻りをしたり、夜になると毎晩深夜遅くまで飲み屋やキャバレーなどの繁華街を

泥酔客に絡まれたりしながら歌い廻っていた。

またこの間(1969年度)NHK総合テレビジョンで夕方に生放送されていたクイズ番組

『チャンスだピンチだ』のアシスタント司会を努めていた。

 

『週刊平凡』1971年1月14日号で、東京銀座六丁目の高級クラブ「ピロポ」でホステスとして

働いていると報じられ。

同店は小林より先に加山雄三の妹が勤めていることで有名だったが、

小林は「六本木の『瀬里奈』で専務の平山成仁さんに会って、彼とは東映の映画に出てたころの

関係で『今度銀座に店を出したから遊びにおいで』と言われたのよ。

ホステスなんてとんでもない」と否定したが、

実際は1970年12月7日から週2日程度、店で歌も歌いつつ、席に着いてお客の接待をしていた。

1971年1月以前の東映映画の出演については公式プロフィールでは公表されていない。

その間には小林幸子(日本コロムビア)→小林さち子(ビクターエンタテインメント)

→岡真由美(テイチク)→小林幸子(ワーナー・パイオニア)と幾度も改名したり

レコード会社を移籍したりした。

過去にはサンミュージックプロダクションにも所属していた。

 

1974年(昭和49年)には第一プロダクションに移籍。1977年 (昭和52年) には雑誌

『週刊プレイボーイ』、『平凡パンチ』などのグラビア内でセミヌードを披露する。

1979年(昭和54年)に『おもいで酒』が有線放送から徐々に知名度が上がり、

レコード販売200万枚の大ヒット。

この年の暮れ『第30回NHK紅白歌合戦』に出場し、紅白初出場を果たす。

全日本有線放送大賞グランプリ、第21回日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞。

 

1980年(昭和55年)にはシングル『とまり木』も大ヒットした。

その後も『ふたりはひとり』、『もしかしてPartII』(美樹克彦とのデュエット曲)、

『雪椿』などの大ヒット作に恵まれ、紅白への連続出場も果たす。

1983年(昭和58年)5月には米国ロサンゼルス、ブラジルなどで初めての海外公演を行い、

新宿コマ劇場で初の単独座長公演を行った。

1987年(昭和62年)には、第一プロダクションから違約金2億円で独立、

個人事務所の幸子プロモーションを設立する。

1988年(昭和63年)、紅白に10回連続出場。自身初となる紅組トリを務める。

1993年(平成5年)、歌手生活30周年を迎えNHKホールにて記念リサイタルを行う。

同年12月、紅白に15回連続出場を果たす。

 

1996年(平成8年)、ワーナーミュージック・ジャパンが演歌部門から撤退したことに伴い、

古巣の日本コロムビアに移籍。

1997年(平成9年)、第9回日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞。

同年にテレビ東京系アニメ『ポケットモンスター』のエンディングテーマソング

『ポケットにファンタジー』を担当。

奇しくもこの曲が初放映されたは、社会に衝撃を与えたポケモンショックの回であった。

同年にはイマクニ?、レイモンド・ジョンソンとのユニット「スズキサン」としてシングル

『とりかえっこプリーズ』を発売。

ポケモンカードゲームのCMソングとして流れた。

 

1998年(平成10年)、芸能生活35周年を迎える。ジャズの殿堂ブルーノート東京にて、

演歌歌手としては初のライブ「35th ANNIVERSARY Boogie&Blues」を開催。

『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のエンディングテーマソング

『風といっしょに』を担当。

そして、20年連続出場となった同年の『第49回NHK紅白歌合戦』にて同曲を披露した。

1999年(平成11年)、覆面歌手「Satchomo(サッチョモ)」としてアイフルのCMソング

『お地蔵サンバ』を発売。Satchomoは暫く正体が明かされなかった。

新宿コマ劇場にて「華麗なる幸子の世界」シリーズが開始。

2000年(平成12年)、日本レコード大賞 美空ひばりメモリアル選奨受賞。

2001年(平成13年)、博多座で女性歌手初の座長公演を行う。

『夢の涯て〜子午線の夢』で、日本レコード大賞編曲賞受賞。

2003年(平成15年)、芸能生活40周年を迎える。親友の美川憲一とともに、

京楽産業のCR「華王」のキャラクターを務める。

新潟県加茂市に『雪椿』の歌碑が建立。

藤田まさと賞大賞受賞。紅白に25回連続出場を果たす。

 

2004年(平成16年)、第55回NHK紅白歌合戦で自身2度目の紅組トリ、初の大トリを務める。

アテネの女神を封印し、雪椿の着物姿で堂々たる歌唱で歌い納めた。

2005年(平成17年)、新潟市、新潟県長岡市より特別感謝状を授与。

日本レコード大賞特別表彰。

2006年(平成18年)、第27回松尾芸能賞大賞受賞。

国土交通大臣より感謝状を授与。

紺綬褒章を受章。御園座(愛知県名古屋市)にて初座長公演。

2007年(平成19年)、長岡市に『越後絶唱』の歌碑が建立。

新潟市より「新潟市観光大使」に任命。

2008年(平成20年)、芸能生活45周年を迎え、全国3劇場で座長公演を行う

(御園座、博多座および明治座初座長)。

文化庁芸術祭の大衆芸能部門で優秀賞を受賞。

第59回紅白歌合戦で45周年記念曲『楼蘭』を熱唱、紅白に30回連続出場を果たす。

 

2009年(平成21年)1月1日、国立競技場にて開催された第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会の

開会式で日本の国歌『君が代』を歌唱した。

伊東四朗・熱海五郎一座合同公演「日本映画頂上決戦」にゲスト出演、

劇中には大婦人と呼ばれる小林幸子の顔をした高さ7メートルの大人形が登場、

大婦人は公演終了後、新潟市のNEXT21に展示されている。

第60回NHK紅白歌合戦に紅組歌手初の31回連続出場を果たす。

 

2010年(平成22年)1月16日と翌17日には、台湾台北市の台北国際会議中心でコンサートを行い、

1993年(平成5年)と2006年(平成18年)のNHK紅白歌合戦で披露された衣装を

台湾の観客に披露した。

その後、台湾政府交通部観光局から「台湾観光親善大使」に任命されている。

2011年(平成23年)4月7日には、同年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

で被災して避難所生活を送る被災者を激励するために福島県相馬市を慰問。

5月27日にも以前から交流があった岩手県大槌町の避難所を慰問。

11月15日、再生医療などを手掛ける株式会社TESホールディングス代表取締役社長の

林明男と電撃結婚。

11月20日には東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市と宮城県気仙沼市を慰問して、

2004年に中越地震で被災した故郷新潟県の長岡市山古志地区(被災当時:山古志村)に所有する

田んぼ「幸子田」で10月に収穫した新米「幸子の復興米」2トンを

所有する大型トラックに積んで贈呈した。

 

2012年(平成24年)4月、小林は長年のビジネスパートナーであった幸子プロモーションの

女性社長と専務を解雇した。

この件で新曲『絆坂』は発売が無期限延期となった。

5月1日、日本財団主催の「被災地で活動した芸能人ベストサポート」で表彰される。

8月20日、レコード会社の日本コロムビアと契約解除に合意。

10月予定で当初小林自身の作詞・作曲による新曲をインディーズから発売することを考えていたが、

10月17日に来年のデビュー50周年記念曲としてさだまさしに製作依頼していた『茨の木』を

新曲として急遽発売した。

先行配信日の9月27日には都内で新曲発表と新レーベル『Sachiko Premium Records

(サチコプレミアレコード)』発足を発表。

34年ぶりに各地をキャンペーン廻りするなどして、

2012年末までに自主製作では異例の2万枚を売り上げている。

 

2013年(平成25年)2月24日には台湾で開催される伝統行事「台湾ランタンフェスティバル 2013」

の開幕式典に、国賓級の待遇で日本人歌手としては初めて招かれた。

また2月22日、23日には2回目となる台湾コンサートを開催した。

6月5日、前作『茨の木』に続き、さだのプロデュースで50周年記念曲『蛍前線』を、

デビュー記念日の6月5日に発売した。

6月13日より、神奈川県横須賀市文化会館を皮切りに

デビュー50周年記念コンサートツアーを開催した。

11月1日、横浜赤レンガ倉庫で「小林幸子&ソノダバンド LIVE〜岩谷時子を歌う」を開催して

ニコニコ動画で生中継された。

12月31日から2014年(平成26年)の1月1日にかけて東京に当時あったニコファーレ内から

ニコニコ生放送で「ラスボス小林幸子による年越しライブ&カウントダウン」が生放送配信された。

「幸子城」と銘打った衣装やさまざまな映像演出で視聴者を驚かせた。

2014年(平成26年)8月17日、個人サークル「5884組」として

第86回コミックマーケットに参加した。

小林自らブースに立ってミニアルバムCD『さちさちにしてあげる♪』を頒布し、

約2時間40分で用意していた限定1500枚のCDが完売した。

急遽9月17日に全国のアニメイト各店及びアニメイトオンラインショップにて限定発売されて、

iTunesアルバム総合ランキングでも10位を記録した。

11月17日には50周年記念コンサートのツアーファイナルとしてデビュー以来初めての

日本武道館コンサート「50周年記念小林幸子in武道館〜夢の世界〜」を開催。

過去に紅白歌合戦で使った豪華衣装3点を持ち込み、1993年(平成5年)の「ペガサス」、

2006年(平成18年)の「火の鳥」、2010年(平成22年)の「母鶴」を再披露した。

イルカがデザイン&プロデュースした振り袖を含む合計13パターンの衣装を用意して

度々衣装チェンジを行いながら新曲『越後に眠る』など全27曲を歌った。

当日の公演の模様はニコニコ動画により生放送された。

 

2015年(平成27年)、小林の母校である新潟市立栄小学校を含む4校が統合して

4月に新設される新潟市立日和山小学校の校歌を作詞・作曲。歌詞には

統合でなくなってしまう4校の校名を取り入れている。

3月22日、埼玉県所沢市の西武園ゆうえんち「西武園ゆうえんちイルミージュ点灯式」に出席して、

1000本の桜がある同遊園地で『千本桜』を歌唱した。

4月25日、千葉市の幕張メッセで開催のイベント「ニコニコ超会議2015」でプロレスデビュー。

対戦相手のボブ・サップと男色ディーノのタッグから、必殺技「ラスボス旋風」でフォール勝ち。

ニコニコ動画により生放送された。

5月9日、奈良市の薬師寺で「世界遺産復興祈願」コンサートを開催。

6月29日には「にいがた発信プロジェクト」の一環として、PRソング『にいがた☆JIMAN!』を

「Negicco feat.小林幸子」名義で発表(小西康陽プロデュース)。

7月27日、小林の声を元にして制作されたVOCALOID4対応のボーカル音源「Sachiko」発売。

8月16日、コミックマーケット(コミケ)88に「5884組」(こばやしぐみ)の

団体名でサークル参加した。

ミニアルバムCD『さちへんげ』は約2時間40分で限定2500枚が完売した。

10月11日、中川翔子のコンサートツアー東京公演にサプライズで登場して、中川とコラボユニットを

組んで「しょこたん▼さっちゃん」として10月28日にシングル『無限∞ブランノワール』を

発売前に初披露。

 

2016年(平成28年)、3月25日に催されたTBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』

(長年、ゲスト出演などを重ねていた)放送終了に伴う聴取者への感謝コンサートに出演。

4月10日放送分から、NHK BSプレミアム『ワラッチャオ!』の「アレンジ演歌道」の

コーナーをうたのおねえさん役で担当。

10月よりジャパンエフエムネットワークのラジオ番組『ニコラジパーク』月曜をドグマ風見と担当。

10月19日には、発売当初にプロモーションを務めたポケモンカードの

20周年記念イベントに出演し、特別ライブが実施された。

また、「Mサチコex」というプロモーションカードが制作され、イベント参加者に配布された。

2017年(平成29年)、第1回ももいろ歌合戦に出場し、

かつての紅白歌合戦と同様の豪華衣装で歌唱。

2019年(令和元年)9月24日、極秘で右目の網膜剥離の緊急手術を受けた。

2022年時点では少しずつよくなっているが、完全には戻っておらず、

その分使う左目が「とても疲れてしまう」という。

同年10月10日に長岡市の山古志地域にある「小林幸子田」で行った稲穂の脱穀作業に中川翔子と

一緒に訪れて、白い眼帯を付けて手術の経過等の記者会見に応じた。

 

2020年(令和2年)8月には松岡充とユニット「シロクマ」を結成して、

松岡が『しろくろましろ』を作詞作曲プロデュース。

2人がデュエットした同曲は、8月9日に先行配信で10月7日にCD発売。

12月、文化庁長官表彰。

10月17日 西武台湾デーに合わせてメットライフドームで開催された

埼玉西武ライオンズ×オリックス・バファローズ戦の始球式に豪華衣装で登場。

2009年(平成21年)紅白衣装「メガ幸子」が台湾などで信仰される媽祖(まそ)に

似ていることから地元民に存在を知られるようになった。

12月17日、東京都内で「文化庁長官表彰 授賞式」に出席。

「長年にわたり、歌手として活躍するとともに、音楽文化の普及に努め、

芸術文化の振興に多大な貢献をした」として評価が認められ受賞した。

 

2021年(令和3年)6月5日、東京オリンピック聖火リレーの新潟県PRランナーとして同県新潟市の

最終ランナーとして走行。

同日は自身の芸能生活57年目のデビュー記念日でもあり「いろんな思いと涙が溢れ、感謝の1日」と

コメントした。

翌6日は地元新潟でNHKのど自慢に出演。『しろくろましろ』を歌唱した。

11月15日、林氏と結婚し10周年を迎えた。

結婚当時は互いに多忙で挙式をあげなかったため、小林と親交のある夏木マリがプロデュースし

10周年を祝った。

2022年(令和4年)7月8日、新型コロナウイルスに感染。

陽性が確認されたとSNSで発表した。

症状は軽症。

後に体調は回復。

 

2023年(令和5年)5月6日、小林を主人公にした異世界漫画

『異世界小林幸子〜ラスボス降臨!〜』が、月刊少女漫画雑誌『ミステリーボニータ』7月号より

連載されることが発表され、6月6日発売の同号より連載中。

幸子プロモーションが監修を務め、脚本を猪原賽、作画を國立アルバが手掛ける。

小林幸子さんの”アドロ”を聴いた時には

あまりの歌唱の巧さに驚きました。

今後益々のご活躍をお祈りいたします。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

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