宮川花子(症候性多発性骨髄腫)のプロフは?大助との出会いについても!

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7月2日の「ザ・ノンフィクション」に宮川花子さんが出演

宮川花子さんってどんな人なのか改めて調べてみました。

今回は、宮川花子(症候性多発性骨髄腫)のプロフは?大助との出会いについても!』

と言うタイトルで、宮川花子さんについてお伝えしたいと思います。

どうぞ最後までごゆっくりお読みください。

 

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宮川花子のニュース

 

出展:Twitter

 

ザ・ノンフィクション 

花子と大助 〜1450日ぶりのセンターマイク〜

 

余命半年と告げられてから5年…夫婦漫才コンビ、宮川大助・花子が悲願であった

なんばグランド花月のセンターマイクに1450日ぶりに復帰するまでの奇跡の映像記録。

 

番組内容

2023年5月9日、夫婦漫才コンビ、宮川大助・花子が4年ぶりになんばグランド花月

(NGK)のステージに帰ってきた。

悲願でもあったセンターマイクを挟んで…

コンビ結成から44年目のベテラン漫才コンビ、宮川大助・花子は、

デビュー直後から数々の賞レースをものにし、漫才師としての「地位」を確立。

2017年には、紫綬褒章を受賞、「名誉」も手に入れた。

おしどり夫婦として知られ、「幸せ」も手にした2人がどん底に突き落とされたのは

今から5年前のことだ。

 

2018年3月、医師から告げられたのは「余命半年」…

宣告を受けたのは、妻・花子(当時63)だった。

腰椎にできたがんは、すでに歩くことも困難なほど花子の体を蝕んでいた。

周囲にがんを隠しての放射線治療…大助と花子のがんとの闘いが始まった。

病名は「症候性多発性骨髄腫」。

血液のがんが全身に広がり、花子は立つどころか、下半身がマヒし、

足を動かすことすらできなくなってしまう。

それでも花子が過酷なリハビリにも耐えられるのは、大助と共に、

またなんばグランド花月の「センターマイクの前に立ちたい」という願いからだった。

 

一進一退の闘病生活が続くなか、2022年10月。自宅で突然、呼吸困難に陥った花子。

救急車で病院に運ばれるも、意識を失い心肺停止寸前の危機に…

たくさんの危機を乗り越え、ついにたどり着いた1450日ぶりのNGKの舞台。

夫婦が起こした奇跡、5年の記録。

 
 
 

引用:「ザ・ノンフィクション」の番組案内から

 

 

 

 

宮川花子のプロフィール

 

出展:Twitter

 

宮川大助・花子
Miyagawa Daisuke Hanako IMG 7641-3 20180110.jpg

今宮戎神社宝恵駕行列途次、戎橋南詰戎舞台にて
(2018年1月10日)
メンバー 宮川大助
宮川花子
結成年 1979年[1][2]
事務所 吉本興業
活動時期 1979年 –
師匠 大助:4代目宮川左近
花子:チャンバラトリオ
芸種 漫才
ネタ作成者 宮川大助
現在の代表番組 宮川大助・花子のはて・はて・な
公式サイト 公式プロフィール

出展:Wikipedia

 

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宮川花子と大助の出会い

 

出展:Twitter

 

宮川 大助(みやがわ だいすけ 1949年10月3日 – )(73歳)

ツッコミ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって右。愛称は大坊(だいぼう)。

本名、松下 孝美(まつした たかみ)。

血液型B型。

身長179cm、体重87kg。

BWHはそれぞれ93・90・100、足のサイズ27cm。

鳥取県西伯郡余子村大字竹内(現:境港市竹内町)生まれ。

実父は元々仕事を求めて朝鮮半島に移住。

南満州鉄道に勤めるも終戦直前のソ連侵攻の大混乱の中、着の身着のままで郷里に戻った後

大工に従事していた中で大助を設けた。

 

大助は極貧の中で育った(吉本内では池乃めだか・黒田有(メッセンジャー)・田村裕(麒麟)と

並んで「物凄い貧乏生活を経験した吉本芸人」と称されることがある)。

鳥取県立米子工業高等学校電波通信科(現・情報電子科)卒業。

三菱電機勤務ののち松竹芸能の養成所を経て1972年、浪曲漫才「宮川左近ショー」のリーダーだった

4代目宮川左近に入門。

同門の宮川小助(のちの宮川青丸)とコンビ「大助・小助」を組んだが、3年で解散。

芸人を一時廃業し、スーパーマーケットの警備員となった。

 

大助の1年後に入社した花子にコンビ結成を誘われた。

警備会社に籍を置く傍ら、100本に上る漫才台本を書き芸界復帰のチャンスを窺った。

公式プロフィールで公表している趣味は、オーディオ・DVD鑑賞、山登り。

とりわけオーディオ機器に大金を費やすことで知られ、自宅に招いたかつての吉本会長・林正之助

から「河内音頭を4、5組いっぺんに腹の中で演ってるようなもん買うな!」と苦笑されている。

後述の花子が難病に侵されてからは「介護男子」としての生活も送っている。

 

宮川 花子(みやがわ はなこ 1954年8月28日 )(68歳)

ボケ担当、立ち位置は向かって左。

本名、松下 美智代(まつした みちよ)。

血液型AB型。

身長160cm、体重63kg。

BWHはそれぞれ90・75・90。足のサイズ24cm

大阪府大阪市出身。高校卒業後、「偉そうにできる」「男にでもボロクソに言えてスカッとする」

という理由で警察官を志望、大阪府警察へ入庁した。

 

城東警察署で交通巡視員を担当し、違反検挙率トップを誇ったという。

この間『素人名人会』(MBSテレビ)に出演、落語『相撲場風景』を演じてトップ賞相当の

「名人賞」を受賞した。

「花嫁修業」を名目に府警を退職した直後の1974年、中学の同級生だった吉田ハッチ

(のちの中田八作)の紹介で、ハッチの師であったチャンバラトリオに入門。

真琴の名で、ハッチ改め誠とコンビ「新鮮組」を組んだが、1年半ほどで解散。

 

芸人を一時廃業し、万引きGメンとして警備会社に就職、先輩社員だった大助と出会う。

若き日の花子は酒癖の悪さで知られ、修行時代に師匠の1人である山根伸介の息子に酌をさせて

大酒に付き合わせたり、大助が運転していた車の窓から顔を出し「ワイは横山やすしじゃ」

と絶叫したりなどのエピソードが残っている。

ある日花子は昼間から自宅で泥酔、やすしが出演中の劇場に35回も電話をかけて呼び出した。

折り返しの電話に出た大助は、自身も酒乱のエピソードを持つやすしから

「あんまり飲ますなアホ。身体しまうぞ」と叱責されるに至った。

これらのことから、花子は芸人仲間の間で「女やすし」の異名をとった。

 

公式プロフィールで公表している趣味は、手芸、映画・舞台鑑賞。

手芸はテレビの講座番組の司会者を務めるまでに至った。

2010年4月9日にかつての職場だった城東署の一日署長を務め、「37年ぶりの大出世」と称された。

2019年12月11日、多発性骨髄腫で闘病中である旨を公表した。

 

 

 

 

 

 

 

ネットの反応

 

 

 

 

 

まとめ

 

いかがだったでしょうか?

今回は、宮川花子(症候性多発性骨髄腫)のプロフは?大助との出会いについても!』

と言うタイトルで、宮川花子さんについてお伝えしました。

 

宮川花子さんと大助さんの出会いがお笑い界ではなくて、

「警備会社」だったというのも泣き笑いを誘うお話ですね。

花子さんのご病気が少しでも快方に向かいます様にお祈りします。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

 

 

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