12月16日の「徹子の部屋」に大山のぶ代さん(故人)がVTR出演!
大山のぶ代さんってどんな人なのか改めて調べてみました。
今回は、『大山のぶ代さんの生前と若い頃は?プロフィールと学歴や経歴についても!』
というタイトルで、大山のぶ代さんについてお伝えしたいと思います。
どうぞ最後までごゆっくりお読みください。
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Table of Contents
大山のぶ代さんのプロフィール
出展:スポニチ Sponichi Annex
おおやま のぶよ
大山 のぶ代
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大山のぶ代(左)と夫・砂川啓介(右)
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プロフィール | |
本名 | 山下 羨代(旧姓:大山)(やました のぶよ)[1][2] |
愛称 | ペコ、のぶえもん[3] |
性別 | 女性 |
出身地 | 日本・東京府東京市渋谷区伊達町 (現:東京都渋谷区恵比寿三丁目)[4][5] |
死没地 | 日本・東京都 |
生年月日 | 1933年10月16日 |
没年月日 | 2024年9月29日(90歳没) |
血液型 | O型[6][7] |
職業 | 女優、声優、歌手、エッセイスト、タレント |
事務所 | アクターズ・セブン |
配偶者 | 砂川啓介[3][8](2017年死別) |
公称サイズ(時期不明)[7] | |
身長 / 体重 | 162 cm / 60 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1957年[2] – 2016年 |
ジャンル | アニメ、吹き替え、ラジオ |
デビュー作 | ポーキー君 (『名犬ラッシー』)[2][9] |
女優活動 | |
活動期間 | 1956年[10] – 2016年 |
ジャンル | テレビドラマ、映画、 テレビCM |
デビュー作 | 『この瞳』[4][6] |
出展:Wikipedia
最終学歴:東京都立三田高等学校 卒業
大山のぶ代さんのご生前
出展:オーディションサイトnarrow(ナロー)
落ち着きと優しさの安定感と安心感・・・
大山のぶ代さんの若い頃
出展:トレンドラボ
お美しい方!しかもカッコイイ!お侍さんみたい!!
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大山のぶ代さんの経歴
出展:毎日新聞
生い立ち
四世代が同居する13人家族の13番目として生まれる。
江戸時代生まれの曾祖父母がいる大家族で、
母は宮城県古川市(現:大崎市)の造り酒屋の娘だった。
渋谷区立臨川小学校、渋谷区立広尾小学校、渋谷区立広尾中学校、東京都立三田高等学校卒業。
幼少期から個性的な声を持っていたといい、幼稚園の入園式では名前を呼ばれ返事をしたところ、
並みいる保護者らが一斉に立ち上がり視線を注いだという。
しかし、当の大山はそんなことに無頓着で全然気が付かなかった上、
母に「十分黙っていればおやつをあげる」と言われるほどおしゃべりな性格だったという。
小学校入学後も、最初はその声を張り上げ校庭を駆け回る活発な少女だったが、
周囲から「男みたいな声」とたびたび言われ、教師からも出席確認の返事で変な顔をされるなど、
次第に「私の声っておかしいんだ」と思うようになる。
中学進学後、同級生に「お前の声はおかしい」と指摘されたことで初めて個性的な自分の声を
自覚したといい、その声に嫌悪感を持つようになったため無口になってしまったという。
その声が原因で「大山が声を出したらみんなで笑う」という遊びが流行るなどいじめを受けたことも
あったといい、引っ込み思案になっていたところに母が
「声が変だからといって、その弱いところをかばってばかりいたらもっと弱くなってしまう。
声を出すような部活動をしなさい」と助言したことから、放送研究部に入部してアナウンスをしたり
自作したラジオドラマを披露するようになる。
なお、これらの活動は周囲や担任教師に反対されたが、1か月経つと何も言われなくなり、
その後は勧誘を機に演劇部へ入部。
『シンデレラ』の継母役を演じ、これが初舞台となった。
高校では演劇部と水泳部に入部するも母の入院ですぐに退部し、
母は2年生の時に子宮癌により42歳で死去。
独り身となったことで、手に職をつけるため演劇の道に進んだという。
キャリア
俳優座養成所に第7期生として入所するが、反対していた父から「役者になるなら出ていけ!」
という言葉を受けたことで家出し、一人暮らしを始める。
以降、応援してくれた兄からの仕送りだけでは生活できず様々なアルバイトを経験した。
養成所での同期には、水野久美、露口茂、井川比佐志、山本學、藤岡重慶、田中邦衛がいる。
1956年、NHKドラマ『この瞳』でデビュー。
養成所時代から女優としての活動を始め、卒業後の1957年には劇団新人会に入団した。
活動をはじめると「面白い子」「新劇出身の喜劇役者」という評価を受け、
多くのドラマやお笑い番組に出演。
また、知人の関係者から「あなたの声は少年の役に向いている」と独特のハスキーボイスを買われ、
声優としての活動も始めるようになる。
デビュー作は、1957年9月に放送した『名犬ラッシー』の吹き替え。
その後、1960年に人形劇『ブーフーウー』のブー役を演じたのがきっかけになり、
声の仕事が増えてくるようになった。
1965年、テレビアニメ『ハッスルパンチ』にて初主演。
その後、『ハリスの旋風』や『無敵超人ザンボット3』など複数の作品で主演を務めた。
東京プロ、劇団でく、高松里友子事務所、青二プロダクションに所属していた。
1979年、テレビアニメ『ドラえもん』(テレビ朝日系)にて、主人公のドラえもんの声を担当。
2005年までの約26年という長期間にわたり演じ続け、自他ともに認める代表作となった。
また、タレント活動や料理研究家として本を出版するなど、
声優業以外にも幅広い分野で活躍するようになった。
1980年には、EP『ドラえもん音頭』など大山が歌ったドラえもん関連のレコード売り上げが
100万枚を突破し、日本コロムビアのゴールドディスクを受賞した。
2001年、直腸癌が判明し長期入院となったことで、『ドラえもん』以外の仕事をすべて降板し休養。
『ドラえもん』の収録のみは、大山の体調を考慮した上で続投した。
だが、この入院を機に大山はドラえもん役の降板を決意する。
最初はスタッフの説得で続投したが、長期的に話し合いの結果、
2005年3月に他のキャスト全員と共に『ドラえもん』を降板した。
ドラえもん降板後
『ドラえもん』降板後は、講演やタレントとしてのテレビ・ラジオ出演を中心に活動。
『元祖!でぶや』などのナレーション活動にて、声優としての活動も続けた。
2005年3月、放送ウーマン賞を受賞。
2006年5月、ドラえもんの声優としての26年間を中心に記した自伝エッセイ
『ぼく、ドラえもんでした。涙と笑いの26年うちあけ話』(小学館)を上梓した。
2006年11月、第11回アニメーション神戸にて『ドラえもん』での功績が称えられ、
レギュラー陣(小原乃梨子、野村道子、たてかべ和也、肝付兼太)と共に特別賞を受賞。
翌2007年3月にも、東京国際アニメフェア2007で第3回功労賞を4人と共に受賞した。
2007年4月、音響芸術専門学校(東京都港区西新橋)の校長に就任。
カリキュラム編成のほか、声優・アナウンス専門課程で昼間・夜間部の授業を数多く担当するなど、
直接学生の指導に当たった。
2008年4月24日、音響芸術専門学校の校長室で授業準備中に脳梗塞を発症して緊急入院したが、
投薬治療を行い、同年8月17日に退院。
自宅療養とリハビリにより、日常生活の不安はないまでに回復し、活動を再開した。
2010年、PSP用ゲームソフト『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』にモノクマ役で出演。
同シリーズでは以降もモノクマ役で出演し、2013年にテレビアニメ化された
『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』は『ドラえもん』以来の
テレビアニメへの出演であると同時に、初の深夜アニメ出演となった。
2011年4月、音響芸術専門学校の校長を退任し名誉学長となる。
多くの実務から離れる一方、2013年までは数か月に一度の特別講義を行っていた。
この前後を境として、多忙・激務が続いたことによる体調不良を理由に、
徐々にではあるが仕事をセーブするようになった。
闘病・死去
2012年秋、アルツハイマー型認知症との診断を受ける。
当初は夫の砂川啓介が「ドラえもんや彼女のイメージを崩す」と心配したことで内密にされたが、
知人である毒蝮三太夫のアドバイスを機に砂川は「このまま隠すことが辛い」
「周囲にもこのままでは心配をかけるし、誤った情報が流れかねない」と考え直し、
大山とも相談。
2015年5月13日、TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』にゲスト出演した砂川の口から
初めて公表された。
なお、発表時の大山本人は話し合ったことを忘れていたという。
発表後も活動は継続した一方、公の場に姿を現すことはなくなり、
仕事はメッセージの収録など限られたものになった。
2014年から2016年にかけて、全国農業協同組合連合会のWebアニメ
「おにくだいすき! ゼウシくん」(計17話)にみの太役で出演しているが、
これが最後に出演したアニメ作品となった。
2015年6月12日、砂川は大山と数多く共演してきた黒柳徹子の番組『徹子の部屋』に出演。
大山は黒柳に対してボイスメッセージを送った。
この放送で、大山は自身の病が公表されたことを自覚したといい、
感想は「なんで、こんな大げさに…」だったという。
その後、砂川から「ちっとも大げさじゃないんだよ」
「元気になるためにも、本当のことを知ってもらって頑張らないとな」と声をかけられると大山は
「うん、あたし、頑張るわ」と答えたという。
発症からしばらくは大山の意向もあり、砂川や夫妻のマネージャーである小林明子、
家政婦による在宅介護を受けていたが、砂川の尿管癌治療に伴い、
2016年4月より老人ホームに入所。
同時期には、持ち役である『ダンガンロンパ』シリーズのモノクマ役も降板。
同年内で芸能活動を事実上終了した。
2017年7月11日、夫の砂川が死去。
早朝のため、大山は臨終には立ち会えなかった。
数日後、大山は葬儀所で棺の中の砂川と対面。
葬儀は大山が喪主となったが出席はしなかった。
砂川の没後も大山は引き続き老人ホームで過ごしており、
後事を託されたマネージャーの小林が通って面倒を見ていた。
2017年時点では認知症は進行しているが健康状態は良く、合唱などの活動に取り組み
リーダー的存在となるなど、他の入所者との交流を楽しんでいたという。
しかし、2024年に入ってからは老衰の影響から会話も難しくなり、
発熱や貧血など体調不良が続き、入退院を繰り返していたという。
同年9月19日が最後の入院となった。
最後の入院から10日後の2024年9月29日16時23分、老衰のため東京都の病院で死去。
90歳没。マネージャーの小林は同日になって病院から危篤の連絡を受けたものの
最期を看取ることはできなかったが、静かに息を引き取ったと話している。
訃報は同年10月11日、所属事務所のアクターズ・セブンにより公表された。
同年10月12日放送分の『ドラえもん(テレビ朝日版第2期)』では、
追悼テロップと特別映像が番組終盤に流された。
その翌日に放送された『サザエさん』では番組冒頭で追悼テロップが流された。
藤子・F・不二雄ミュージアムや水田わさびなども哀悼の意を表した。
葬儀では、棺に夫である砂川の写真と大山が好きだった虎屋の栗ようかん、
ドラえもんのぬいぐるみなどが入れられた。
出展:Wikipedia
大山のぶ代さんのネットの反応
<徹子の部屋>追悼特集 桂米丸さん、かしまし娘・正司照枝さん、中尾彬さん、真島茂樹さん、大山のぶ代さん 今年亡くなった方々のありし日をしのぶ(MANTANWEB)https://t.co/24iCdob7cB
— 東海落語往来 (か) (@kanamyk) December 15, 2024
大山のぶ代さんの追悼記事を読み返そうとしたら 404 not found ……ライブドアニュースって消えちゃうのか。元の記事は多分これかな。日刊スポーツの。画像も同じだし。
大山のぶ代さん死去 90歳 老衰 「ぼく、ドラえもん」アドリブで生み出した名ぜりふ https://t.co/l13hFUMH5s
— つちのこ囃子 (@I_Do_Yes_I_Do) December 15, 2024
今の声優陣の皆さんには
申し訳ないと謝らなければ
ならないのですが
私には、やはりドラえもんと言えば
大山のぶ代さんしかあり得ない。
こればかりは、どうする事もできない。 https://t.co/dkHun3k2bC— 東北腐敗@王蛇の風邪 (@GF13_001_NH_2) December 15, 2024
ハゼドンの展示があって、ハゼドンの声は大山のぶ代さんなので、大山さんを偲ぶ気持ちにもなりました。 https://t.co/LwwHUP7gOc pic.twitter.com/90bBS47Ctn
— 稲垣高広(仮面次郎) (@kamenjiro) December 15, 2024
「しずかちゃんの声」野村道子が語る大山のぶ代さんとのロシア旅行エピソード「スーツケースからドラえもんが次々と」(SmartFLASH) https://t.co/04AlgO83Sg
— NEWSタイムズ (@NowTimes02) December 15, 2024
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大山のぶ代さんのまとめ
いかがだったでしょうか?
今回は、『大山のぶ代さんの生前と若い頃は?プロフィールと学歴や経歴についても!』
というタイトルで、大山のぶ代さんについてお伝えしました。
もう、”ドラえもんと言えば大山のぶ代”とイメージが同化・固定してましたね~(笑)
改めまして大山のぶ代さんのご冥福をお祈り申し上げます。
今回も最後までお読みいただき有難うございました。